「台湾問題」

< Taiwan Mondai >

"Taiwan Issue"



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<参考資料>


【ウィキペディア】★台湾問題





2015年11月7日、1949年の中華人民共和国の建国以来、66年間で、初めて、『中華人民共和国:首席 [President of the People's Republic of China]』と、『中華民国:総統 [President of the Republic of China]』が、会見した。

場所は、シンガポールのホテル:『シャングリラ・ホテル・シンガポール [Shangri-La Hotel Singapore]』だった。

何かを話し合うことが目的ではなく、とりあえず『握手』をすることだけが目的だったようだ。

『歴史的な握手』を交わしたのは、第7代中華人民共和国主席:『習近平 [Xi Jin-ping](しゅう・きんぺい / A.D.1953-present)』【妻は、美人の歌手:『彭麗媛 [Peng Li-yuan](ほう・れいえん / A.D.1962-present)』。】と、第12代および第13代中華民国総統:『馬英九 [Ma Ying-jeou (Ma Ying-jiu)](ば・えいきゅう / A.D.1950-present)』である。

会談の席では、お互いに、「OO主席 [Zhu-xi] [president]」「OO総統 [Zong-tong] [president]」とは呼ばず、「OO先生 [Xiang-sheng] [Mister]」と呼び、ホテル代などの費用は、『割り勘(わりかん) [go Dutch] [split the cost] [share the expenses]』【「割前勘定(わりまえかんじょう)」の略称。】にしたそうだ。

【日本語では「OO先生」という場合、「Mister」という意味はなく、「teacher」「doctor」「master」「professor」「instructor」という意味があり、必ず「敬称 [honorific-title]」として使う。平成時代では、気に食わない相手をバカにして呼ぶ場合にも使用する。】

報道機関から「握手」の感想を聞かれた馬英九先生は、「いい感じだった」と答えたという。


【YouTube】★Xi Jinping, Ma Ying-jeou in Historic Meeting★<VIDEO 00:02:01> [配信 2015/11/07]

このサイト内のスクリーン


【産経ニュース】★【中台首脳会談】歴史的会談は会場費も食事代も「割り勘」 互いのメンツ配慮 呼称も「さん」付けで対等演出★(全3ページ)[配信 2015/11/07/14:45]


【中央社フォーカス台湾】★<馬・習会談>馬英九総統、握手の感想聞かれ「いい感じ」/台湾★[配信 2015/11/07/19:20]


【ウィキペディア】★シャングリ・ラ・ホテル・シンガポール



そもそも、『台湾問題 [Taiwan Issue]』とは、どういう『問題』なのか? ここで、改めて整理する必要があるだろう。

筆者自身が、「頭の中の知識を整理する」という目的もある。

もしかすると、習近平先生も、馬英九先生も、彭麗媛先生も、ご存じ無いような『歴史的事実』が浮かび上がってくるかも知れない。

歴史学者の『知識』が、政治に影響を与え、戦争にも影響を及ぼすことは、いつの時代でも、あり得る。

筆者がここで紹介する『記事』は、筆者自身にとっては、自分の知識の中の一部分であるが、今は、これだけで充分であろう。

歴史学者が、こういった話をするとき、まず最初に悩むのが、「歴史上の、どの時点から、話を始めるか?」である。おそらく、習・馬先生たちは、『台湾問題』において重要な出発点として、「第二次国共内戦が勃発(ぼっぱつ)した、1945年」と、答えると思うが、筆者は、更にそこから108年、溯(さかのぼ)って、「ビクトリア女王が即位した、1837年」から、話を始めたい。

なお、『第二次世界大戦』に関しては、話が長くなるので、詳しく書かなかった。(「第二次世界大戦の話を書き始めると、止まらなくなる」という理由もある。)

筆者が語った『物語』が、中国と台湾の大学生たちにとって、自分たちの先祖のことを研究するための『参考』に成れば、この上なく光栄である。

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大英帝国 [British Empire]【=『大ブリテンおよび北アイルランド連合王国 [United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland]』と、全世界の植民地の総称。】の国内で、ビクトリア女王 [Queen Victoria](A.D.1819-1901)』が1837年に即位すると、『清帝国 [Empire of the Great Qing] [Qing Dynasty(清朝)]』【現在の中国。】に対する植民地政策を強化し始めた。

1839年から1842年にかけて起こった『第一次オーピアム戦争 [First Opium War]』【日本国では「阿片戦争(あへんせんそう)』という名称が一般的で、『オーピアム戦争』という名称は誰も使用しない。英語の「オーピアム」は、日本語では「アヘン」。】における惨敗、1856年から1860年にかけて起こった『第二次オーピアム戦争 [Second Opium War]』【日本国では『アロー戦争』という名称が一般的で、『オーピアム戦争』という名称は誰も使用しない。】における惨敗により、清帝国は、急速に国力が弱体化した。

1861年、清帝国で、『咸豊帝 [Xian-feng Di] [Xianfeng Emperor](かんぽう・てい / A.D.1831-1861)』が死去すると、咸豊帝の第一皇子:『同治帝 [Tong-zhi Di] [Tongzhi Emperor](どうち・てい / A.D.1856-1875)』【本名、『愛新覚羅載淳 [Ai-xin-jue-luo Zai-chun]』。】が即位したが、まだ5歳であり、政治の実権を握って独裁体制を敷いたのは、生母である『慈禧太后 [Ci-xi Tai-hou] [Empress Dowager Cixi](じき・たいこう / A.D.1835-1908)』【日本国では『西太后(せいたいごう / せいたいこう)』という名前で有名。】だった。

慈禧太后は、咸豊帝の『正室(せいしつ)』ではなく、『妾(めかけ)』であったが、正室の『慈安太后 [Ci-an Tai-hou] [Empress Dowager Ci'an](じあん・たいこう / A.D.1837-1881)』【日本国では『東太后(とうたいごう / とうたいこう)』という名前で有名。】には、子供がいなかったので、慈禧太后が権力を掌握した。

1867年、日本国で、『大政奉還(たいせいほうかん)』により、政治の統治者が、『徳川幕府』の第15代将軍:『徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ / A.D.1837-1913)』から『明治天皇(めいじ・てんのう / A.D.1852-1912)(第122代天皇。本名、『祐宮睦仁(さちのみや・むつひと)』)。』【ここで「本名」としてある名前は、厳密には、「御称号(ごしょうごう)」および「諱(いみな)」を示す。】に移り、1889年(明治22年)2月11日、『大日本帝国憲法』が公布され、『大日本帝国 [Empire of Japan]』が誕生。

1894年から1895年にかけて、『日清戦争(にっしん・せんそう) [First Sino-Japanese War]』【中国では『甲午戦争 [Jia-wu Zhan-zheng]』と呼ぶ。】が勃発。『日本帝国』が朝鮮半島に侵攻して、清帝国と戦争状態になり、ここでも、清帝国が敗北し、戦後に調印された『下関条約 [Treaty of Shimonoseki](しものせき・じょうやく)』により、清帝国は『台湾 [Tai-wan] [Taiwan](たいわん)』を失う。

1899年から1901年にかけて、清帝国で、『義和団事変 [Yi-he-tuan Shi-bian](義和団運動 [Yi-he-tuan Yun-dong]) [Boxer Rebellion]』【日本国では「義和団の乱(ぎわだんのらん)」と呼ぶ。】が勃発。

1901年、大英帝国の魔女:ビクトリア女王が死去。

1904年から1905年にかけて、明治天皇を君主とする日本帝国と、『ニコライ2世 [Nicholas II](A.D.1868-1918)』を君主とする『ロシア帝国 [Russian Empire]』が、朝鮮半島の支配権を巡って戦争、日本帝国が勝利。(『日露戦争(にちろ・せんそう) [Russo-Japanese War(ロシアと日本の戦争)]』。)

1908年、清帝国の魔女: 慈禧太后が死去。

1910年、日本帝国が、朝鮮半島を併合。

『女王の呪い』でふらついていた清帝国は、更に『天皇の野望』の猛攻を受けて、国力が極度に衰弱し始めた。

この状況を打開するべく、1911年、中国の占いにおいて『辛亥 [Xin-hai](かのと・い)』の年、『辛亥革命 [Xin-hai Ge-ming] [Xinhai Revolution](しんがい・かくめい)』が勃発した。

翌1912年1月1日、中国国民党:総理である『孫中山 [Sun Yat-sen (Sun Zhong-shan)](A.D.1866-1925)』【日本国では『孫文(そん・ぶん)』という名称が一般的で、『孫中山(そん・ちゅうざん)』という名称はあまり使用しない。】を、『臨時総統』として、『中華民国 [Zhong-hua Min-guo] [Republic of China](ちゅうか・みんこく)』が成立。

6歳の皇帝:『宣統帝 [Xuan-tong Di] [Xuantong Emperor](せんとう・てい)』、本名、『愛新覚羅溥儀 [Ai-sin-gio-ro (Ai-xin-jue-luo) Pu-yi](あいしんかくら・ふぎ / A.D.1906-1967)』は、国民党政府の命令により、強制的に、退位に追い込まれた。ただし、退位後も、国民党政府は皇族を保護し、愛新覚羅溥儀は、居城である『紫禁城 [Zi-jin Cheng](しきんじょう)』に、そのまま住み続けた。

同じ年、1912年、明治天皇が60歳で病死。同年、『大正天皇(たいしょう・てんのう / A.D.1879-1926)(本名、『明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)』)』が33歳で即位。

1914年から1918年にかけて、全世界規模の大戦争が起こる。『第一次世界大戦 [World War I] [First World War]』である。

1913年、『袁世凱 [Yuan Shi-kai](えん・せいがい / A.D.1859-1916)』が、『中華民国:大総統』に就任するが、独裁体制を強化、1915年、国名を『中華帝国 [Zhong-hua Di-guo] [Empire of China]』に改名して、『中華帝国:皇帝』に即位する。しかし、1916年に内戦が起こって敗北、退位し、まもなく病死する。『中華帝国』は、1年で滅亡した。

1917年、ロシア革命が勃発。

1921年7月頃、『陳独秀 [Chen Du-xiu] (ちん・どくしゅう / A.D.1879-1942)』、『毛沢東 [Mao Ze-dong](もう・たくとう / A.D.1893-1976)』たちにより、ソビエト連邦の『共産主義 [Communism]』を手本として国家を立て直そうと考える、『中国共産党 [Communist Party of China]』が結成された。

中国共産党以外にも、中国の各地で、地方の軍隊を指揮する指導者たちが、自分の権力を守ろうとして、一時的に、戦国時代のような状況になった。これらの司令官たちを、『軍閥 [Jun-fa] [Warlord](ぐんばつ)』と呼ぶ。袁世凱が死去した1916年から、『北伐(ほくばつ)』が完了する1928年にかけての12年間を、『軍閥時代 [Warlord Era]』と呼ぶ。



【ウィキペディア】★軍閥時代


1922年2月6日、『アメリカ合衆国(がっしゅうこく) [United States of America]』の『ワシントンDC [Washington, District of Columbia (= Washington, D.C.)]』において、『ワシントン海軍軍縮条約 [Washington Naval Treaty]』が締結された。これは、第一次世界大戦の反省から生まれた条約であり、合衆国、連合王国、日本帝国、フランス、イタリアの5カ国における、各国内の海軍の『戦艦』と『航空母艦』の排水量の総合計を制限する条約である。

1925年、癌(がん)にかかって、『北京市 [Bei-jing Shi] [Beijing City (Peking City)](ペキン・し)』で療養していた孫中山が病死。遺言は、

「革命尚未成功、同志仍須努力。」

【日本語:訓読(くんどく)は、「かくめいなおいまだせいこうせず、どうしよってすべからくどりょくすべし)。】

「革命はまだ成功していない。従がって、自分が死んだあとも、同志たちは、成功するまで努力し続けよ」という意味である。

近代中国史に燦然(さんぜん)と輝く業績を残した、偉大な思想家:孫中山の革命運動を引き継いだのは、『蒋介石 [<Cantonese> Chiang Kai-shek] [<Chinese> Jiang Jie-shi](A.D.1887-1975)』だった。

【世界的にも日本国でも「蒋介石」という名前で有名だが、『介石』は字(あざな)であり、ファーストネームは『中正 [<Cantonese> Chung-cheng] [<Chinese> Zhong-zheng]』であるため、公式記録では『蒋中正』と書かれている場合が多い。】

【「字」とは、昔、中国人が、本名の「苗字」と「ファーストネーム」以外に名乗った名前。三国志の『劉備玄徳 [Liu Bei Xuan-de](りゅう・び・げんとく / A.D.161-223)』の場合、「劉」が苗字、「備」がファーストネーム、「玄徳」が字。『諸葛亮孔明 [Zhu-ge Liang Kong-ming](しょかつ・りょう・こうめい / A.D.181-234)』の場合、「諸葛」が苗字、「亮」がファーストネーム、「孔明」が字。『字』に関しては、和英辞書では『Chinese Courtesy Name(中国における儀礼的な名前)』と翻訳されている。】

1926年、大正天皇が47歳で病死。同年、『昭和天皇(しょうわ・てんのう / A.D.1901-1989)(本名、『迪宮裕仁(みちのみや・ひろひと)』)』が25歳で即位。

1926年に、中国国民党の指導者の地位を確立した蒋介石は、『広東省 [Guang-dong Sheng] [Guangdong Province ](カントン・しょう)』を拠点に、『中華民国国旗 [Flag of the Republic of China]』になっている、『青天白日旗 [Qing-tian-bai-ri Qi](せいてんはくじつ・き)』を掲げながら、7月1日、中国の地方勢力の討伐を開始する。国民革命軍による、有名な『北伐 [Bei-fa] [Northern Expeditions](ほくばつ)』【「伐」は、「討伐(とうばつ) [subjugation]」という意味。】である。

『広西省 [Guang-xi Sheng] [Guangxi Province](こうせい・しょう)』【現在の『広西壮族自治区 [Guang-xi Zhuang-zu Zi-zhi-qu] [Guangxi Zhuang Autonomous Region(広西チワン族自治)]』】の支配者:『李宗仁 [Li Zong-ren](り・そうじん / A.D.1890-1969)』も、『北伐』に加わった。

1926年7月1日、蒋介石の『国民革命軍 [Guo-min Geming-jun] [National Revolutionary Army]』は、『広州市 [Guang-zhou Shi] [Guangzhou City](こうしゅう・し)』を出発し、北上を開始した。

『国民革命軍』の名称に関して、少しややこしい経緯がある。北伐が始まる2年前の1924年10月23日に、『馮玉祥 [Feng Yu-xiang](ふう・ぎょくしょう / A.D.1882-1948)』が、北京でクーデターを起こし、皇帝を退位したあとも紫禁城に住んでいた愛新覚羅溥儀たちを、紫禁城から追放した。その翌日、1924年10月24日、馮玉祥は、自分の軍隊を『国民軍 [Guo-min-jun] [Nationalist Army]』と命名した。

1926年5月に、『奉天市 [Feng-tian Shi] [Fengtian City](ほうてん・し)』【現在の『瀋陽市 [Shen-yang Shi] [Shenyang City](しんよう・し)』。】の『張作霖 [Zhang Zuo-lin](ちょう・さくりん / A.D.1873-1928)』が北京市に侵攻し、馮玉祥の『国民軍』は苦戦して、3ヶ月後に退却するが、この間に蒋介石の『国民革命軍』が『北伐』を開始していたので、馮玉祥の『国民軍』が北方の勢力を長期間、引き付けたことによって、南方の蒋介石の『国民革命軍』は、戦いを有利に進めることが可能になった。

この馮玉祥の『国民軍』が、1926年9月17日、『綏遠省 [Sui-yuan Sheng] [Suiyuan Province](すいえん・しょう)』【現在の『内蒙古自治区 [Nei-meng-gu Zi-zhi-qu] [Inner Mongolia Autonomous Region](ないもうこ・じちく)(=内モンゴル自治区)』の『五原県 [Wu-yuan Xian] [Wuyuan County](ごげん・けん)』で、「国民軍は全軍、国民党に加わる」と宣言した。この出来事は、『五原誓師 [Wu-yuan Shi-shi]』【日本国では有名ではない事件。】と呼ばれている。

馮玉祥が指揮する軍団には、『五虎将 [Wu-hu-jiang](ごこしょう)』と呼ばれた五人の将軍がいた。

『張之江 [Zhang Zhi-jiang](ちょう・しこう / A.D.1882-1966)』

『鹿鍾麟 [Lu Zhong-lin](ろく・しょうりん / A.D.1884-1966)』

『宋哲元 [Song Zhe-yuan](そう・てつげん / A.D.1885-1940)』

『劉郁芬 [Liu Yu-fen](りゅう・いくふん / A.D.1886-1943)』

『鄭金声 [Zheng Jin-sheng](てい・きんせい / A.D.1879-1928)』

である。

【『三国志演義』の劉備玄徳にも『五虎将 [Five Tiger Generals](ごこしょう)』がいた。

『関羽雲長 [Guan Yu Yun-chang (Yun-zhang)](かん・う・うんちょう / A.D.162頃-220)』

『張飛翼徳 [Zhang Fei Yi-de] / 張飛益徳 [Zhang Fei Yi-de](ちょう・ひ・よくとく / ちょう・ひ・えきとく / A.D.166頃-221)』

『趙雲子龍 [Zhao Yun Zi-long](ちょう・うん・しりゅう(しりょう) / A.D.?-229)』

『馬超孟起 [Ma Chao Meng-qi](ば・ちょう・もうき / A.D.176-222)』

『黄忠漢升 [Huang Zhong Han-sheng](こう・ちゅう・かんしょう / A.D.?-220)』

である。『一騎当千(いっきとうせん)』(「一人で千人を相手に互角に戦うことができる」という意味。)と呼ばれる強さを持っていた。】

【日本国では『五虎将』とは呼ばず、『五虎大将軍(ごこだいしょうぐん)』という呼び方が一般的。】

【なお、大韓民国の現在の大統領、『朴槿恵 [Park Geun-hye](A.D.1952-present)』(現在まで未婚)が、「私は三国志の趙雲のファンです」と公言している、その「趙雲」とは、この五虎将の一人、趙雲子龍のことである。】

【『三国志』の中にも、『北伐(ほくばつ)』という戦いがあった。蒋介石や、20世紀前半の中国人たちが、『三国志』を意識していたことは間違いない。】

国民党に加わったあと、馮玉祥が指揮する軍団は、『国民革命軍』の中で、『西北軍 [Xi-bei-jun] [Northwest Army]』と呼ばれるようになった。

しかし、蒋介石の『国民革命軍』を、省略して『国民軍』と呼ぶ場合があるので、馮玉祥の『国民軍』と混同してしまうが、とにかく、馮玉祥が『国民革命軍』に加わったあとは、「国民革命軍」も、「国民軍」も、同じ軍隊を意味するようになった。なお、『国民革命軍』のことを、省略して『革命軍』と呼ぶ場合もある。

蒋介石の国民革命軍は、1926年7月1日に広州市を発進すると、三方面に分かれて北上した。北伐を開始した時期の国民革命軍の総兵力は、10万人前後だった。

7月12日、『唐生智 [Tang Sheng-zhi](とう・せいち / A.D.1889-1970)』が指揮する『西路軍』が、『長沙市 Chang-sha Shi] [Changsha City](ちょうさ・し)』を占領、10月10日には、『湖南省 [Hu-nan Sheng] [Hunan Province](こなん・しょう)』と『湖北省 [Hu-bei Sheng] [Hubei Province](こほく・しょう)』の支配者:『呉佩孚 [Wu Pei-fu](ご・はいふ / A.D.1874-1939)』を、激戦のすえ撃ち破って、『武漢市 [Wu-han Shi] [Wuhan City](ぶかん・し)』を占領した。

蒋介石が直接指揮する『中路軍』は、『江西省 [Jiang-xi Sheng] [Jiangxi Province](こうせい・しょう)』に向い、『南昌市 [Nan-chang Shi] [Nanchang City](なんしょう・し)』の攻防戦では、『孫伝芳 [Sun Chuan-fang](そん・でんほう / 1885-1935)』に苦戦するが、11月8日、南昌市を占領した。

『何応欽 [He Ying-qin](か・おうきん / A.D.1890-1987)』が指揮する『東路軍』は、他の二つの方面軍に比べると比較的容易に進撃することができ、12月、『福建省 [Fu-jian Sheng] [Fujian Province](ふっけん・しょう)』全体を支配下に置いた。

1927年1月1日、国民党は、拠点を武漢市に移す。

1927年3月22日、国民革命軍は、『上海市 [Shang-hai Shi] [Shanghai City](シャンハイ・し)』を占領。3月24日、『南京市 [Nan-jing Shi] [Nanjing City](ナンキン・し)』に入城。首都を南京市に移し、膨張した国民革命軍を再編成すると、『北伐』を再開し、1928年6月8日、遂に、北京市に入城した。(首都は南京市のまま。)

北京市では、3年前に病死した孫中山の遺体を受け取り、その遺体を南京市に運んで、南京市に近い『紫金山 [Zi-jin Shan] [Purple Mountain](しきんさん)(標高:447メートル)』に霊廟(れいびょう)を建て、遺体を安置した。そこは、『中山稜 [Sun Yat-sen (Sun Zhong-shan) Mausoleum](ちゅうざんりょう)』と呼ばれている。

1927年4月、『山西省 [Shan-xi Sheng] [Shanxi Province](さんせい・しょう)』の『閻錫山 [Yan Xi-shan](えん・しゃくざん / A.D.1883-1960)』が、国民革命軍に加わり、『陝西省 [Shan-xi (Shaanxi) Province](せんせい・しょう)』の『劉鎮華 [Liu Zhen-hua](りゅう・ちんか / A.D.1883-1955)』を撃ち破った。

【陝西省を、英語では「a」を一つ余分に付けて「Shaanxi Province」と表記している。『山西省(さんせいしょう) [Shan-xi Sheng』は、英語では「Shanxi Province」と表記。】

1928年6月4日、日本帝国軍が、満州地方の支配者:張作霖の乗った列車を爆破し、張作霖を暗殺した。

後継者である、張作霖の息子:『張学良 [Zhang Xue-liang](ちょう・がくりょう / A.D.1901-2001)』【百歳まで生きた。】は、敵対していた蒋介石と交渉を始め、「実質は、満州地方に関する自分の支配権を継続するが、表向きは国民革命軍に『加盟』したことを公表する」という条件を提示すると、蒋介石は、その条件を受け入れたので、蒋介石の国民革命軍は、満州地方も掌握した。

毛沢東が指揮する『共産軍』【『共産軍』は通称であり、正式名称は、『中国工農紅軍 [Zhong-guo Gong-nong Hong-jun] [Chinese Workers' and Peasants' Red Army]』で、略称は、『紅軍 [Hong-jun] [Red Army]』。】は、北伐の当初、『(第一次)国共合作』【国民党と共産党の同盟。】により、国民革命軍と行動を共にしていたが、北伐の途中、1927年4月12日に、蒋介石が共産党員を弾圧したことにより、7月13日に同盟を破棄して、国民革命軍との内戦状態に突入していた。

1930年12月、蒋介石は、まだかなりの戦力を保持し続けている共産軍への本格的な攻撃を開始した。1927年から始まった、国民革命軍と共産軍の戦いを、『第一次国共内戦』と呼ぶ。

内戦の最中(さなか)、1931年9月18日、日本帝国軍が、満州地方に侵攻を開始した。『満州事変 [Man-zhou Shi-bian](九一八事変 [Jiu-yi-ba Shi-bian])[Manchurian Incident]』である。日本帝国軍の『関東軍』【中国の関東州 [Guan-dong Zhou] [Kwantung Leased Territory] を警備する日本帝国軍部隊。】が、1932年2月までに、満州全土を占領すると、3月1日、8年前、18歳のときに紫禁城から追放されて浪人になっていた、清帝国最後の皇帝:愛新覚羅溥儀(=宣統帝)が、『満州帝国:皇帝』に即位して、『満州帝国(満洲帝國) [Man-zhou Di-guo] [Empire of Manchukuo](まんしゅう・ていこく)』(『満州国(満洲國) [Man-chu-kuo (Man-zhou-guo)])の建国を宣言した。

26歳になっていた溥儀は、満州では、『康徳帝 [Kang-de Di] [Kangde Emperor](こうとく・てい)』を名乗った。

毛沢東のしぶとさも、異常だったが、溥儀のしぶとさも、尋常ではなかった。筆者は、あくまでも「個人的な推理」としてだが、「溥儀が日本帝国軍を満州に引き入れたのではないか?」という『疑惑』を抱いている。

とにかく、蒋介石と毛沢東が、内戦で大混乱している最中(さいちゅう)に、今度は、『中国東北部 [Northeast China]』で、溥儀が独立国家を建設したのである。

日本帝国の説明は、「この帝国は、中国人である溥儀が統治する中国の国家である」というものだったが、満州帝国以外の中国人は、そんな屁理屈(へりくつ)を、誰も認めなかった。

もちろん、蒋介石も、内心では、認めていなかった。ところが、今は、満州地方の日本帝国軍へ戦力を向けると、共産軍と戦えなくなる。日本帝国軍は、日露戦争でロシア軍に勝利したくらいに、とてつもなく強いので、先に共産軍を倒してから、中国軍全体を再編成して、日本帝国軍との全面戦争に持っていきたかった。そこで、表向きは、日本帝国軍からの要求に対して、柔軟に対応した。

蒋介石は、日本帝国からの要求に対して柔軟に対応する一方で、1932年3月、『国際連盟 [League of Nations (L.N.)]』に対して、日本帝国の犯罪行為を『提訴』した。これに対し、日本帝国は、「国際連盟による調査団の派遣」を提案し、国際連盟も、これを受け入れたので、1932年3月から6月にかけて、『リットン調査団 [Lytton Commission]』が満州帝国を視察した。団長は、連合王国の『ヴィクター・ブルワー=リットン [Victor Bulwer-Lytton](A.D.1876-1947)(=第2代リットン伯爵 [2nd Earl of Lytton])』だった。

1932年10月2日、リットン調査団は、『リットン報告書 [Lytton Report]』を公表した。日本帝国は、この報告書で、調査団が、「満州帝国は正しい手順を踏んで建国された」と、認めることを願ったが、実際は、「国際的に認めることはできない」という内容だった。

1933年2月24日、国際連盟総会において、「リットン報告書の内容を認めるかどうか?」【つまり、「満州帝国を否認するかどうか?」という意味。】の採決が行われた。そして、「賛成42、反対1(日本帝国)、棄権1」の圧倒的多数で、「満州帝国」は、国際的に『否認』をされた。その採決の直後、日本帝国代表:『松岡洋右(まつおか・ようすけ / A.D.1880-1946)』は、英語で簡単な演説をすると、そのまま、会場から退出した。

そのときの、UPI通信社によるリポートが残っていて、インターネットで公開されている。


【United Press International】★Japan stuns world, withdraws from league - UPI Archives

このサイトのページ】<助言>何が書いてあるか気になる方は、お近くの大学生、または、大卒の知り合いに聞いてください。一千円払えば、断る理由は無いと思います。


1ヶ月後、3月27日、日本帝国は、『国際連盟』に対して『脱退』を通告。同じ年の1933年に、ワイマール共和国のアドルフ・ヒトラー内閣が、国際連盟からの脱退を通告。

日本帝国軍は、1932年3月1日の満州帝国建国後、基本的に『長城 [Chang-cheng](万里長城 [Wan-li Chang-cheng]) [Great Wall of China]』【日本国では『万里の長城(ばんりのちょうじょう)』という名前が一般的。】を超えて南方へは侵攻しなかった。一時的に『長城』を超えたことはあったが、それは、『牽制』が目的であり、中国軍を追い払うと、『長城』の北側へ戻った。

蒋介石は、この『長城』を国境線として、日本帝国:関東軍と交渉を進めた。

「中国国民党は、明確には、満州帝国を承認しないが、日本帝国軍が、長城を超えて北京市や『天津市 [Tian-jin Shi] [Tianjin City](てんしん・し)』を攻撃しなければ、当面の間は、満州帝国を『黙認』する。」

という内容である。そして、もう一つの条件は、

「これらの『密約』は、文書化しない。」

というものだった。

日本帝国軍も、ここで一旦、態勢を立て直して、満州帝国の建設作業に集中したかったので、蒋介石と、日本帝国:関東軍は、微妙な駆け引きを続けて、戦争行為を最小限に抑えた。

中国全土で、「蒋介石は日本帝国軍と戦おうとしない」と、批判を浴びたが、蒋介石本人は、日本帝国軍の強さを知っていたので、どうしても、先に、共産軍を滅ぼしておきたかった。

毛沢東は、『中華ソビエト共和国』という『解放区』を、中国全土の各地に設立していたが、蒋介石は、これらの自治区を次々と攻撃して、1934年には、共産軍を壊滅寸前まで追い込んだ。

江西省に追い詰められた共産軍は、1934年10月、その地を脱出して、北へ向かう計画を立てた。有名な『長征 [Chang-zheng] [Long March](ちょうせい)』と呼ばれる脱出作戦である。

1936年10月、共産軍は、1万2500キロメートルを徒歩で移動して、『甘粛省 [Gan-su Sheng] [Gansu Province](かんしゅく・しょう)』の『静寧県 [Jing-ning Xian] [Jingning County](せいねいけん)』まで脱出した。

最盛期には、総兵力が10万人前後いた共産軍は、『長征』のあとは、数千人にまで兵力を減らしていた。

中国の北西地方に逃げ込んだ共産軍を滅ぼすために、蒋介石は、更に攻撃命令を出して、最後のとどめを刺すために、『西安市 [Xi'an Shi] [Xi'an City](せいあん)』で指揮を執っていたが、1936年12月12日、突如、味方の将軍たちによって、監禁された。『西安事変 [Xi'an Shi-bian] [Xi'an Incident]』【日本国では『西安事件(せいあん・じけん)』と呼ぶ。】である。

首謀者は、『張学良』と、『楊虎城 [Yang Hu-cheng](よう・こじょう / A.D.1893-1949)』である。

張学良と楊虎城は、

「共産軍との内戦を、直ちに停止して、中国の軍隊全軍で、日本帝国軍と戦う方針に改めていただきたい。」

と、要求した。その時期、中国の国内で、「内戦をやっている場合ではない」という批判が、かなり強くなっていたのである。共産軍は異常に、しぶといので、いつ滅ぼせるか分からない。共産軍と戦っている間に、中国は、どんどん、領土を失っている。特に、「満州地方」というのは、張学良が、父親から引き継いで支配していた地域である。

蒋介石は、なかなか態度を変えなかったが、やがて説得に応じ、使者を通して、西安に来ていた共産党の『周恩来 [Zhou En-lai](しゅう・おんらい / A.D.1898-1976)』と、内戦停止の約束をしたので、12月25日、張学良たちは、蒋介石を解放した。しかし、張学良と、楊虎城は、その後、軍法会議にかけられ、死刑にはならなかったが、生涯、二度と、政治活動に戻ることは無かった。

蒋介石の妻:『宋美齢 [Soong Mei-ling] [Song Mei-ling](そう・びれい /A.D. 1897-2003)』【106歳まで生きた。】と、宋美齢の兄で、『宋子文 [Soong Tzu-wen (Song Zi-wen)](そう・しぶん / A.D.1894-1971)』は、「蒋介石の使者」として、張学良、楊虎城と交渉を続け、また、周恩来とも交渉した。

また、オーストラリア人の『ウィリアム・ヘンリー・ドナルド [William Henry Donald](A.D.1875-1946)』という人物も、宋美齢に頼まれて、蒋介石の救出に尽力した。

宋美齢は、10歳から19歳まで、アメリカ合衆国に住んで教育を受け、マサチューセッツ州の『ウェルズリー大学 [Wellesley College]』を卒業していたので、英語が堪能だった。のちに、第二次世界大戦の時期、1942年11月から7ヶ月間、合衆国に滞在して蒋介石の代理として、合衆国の政治家たちと政治交渉を行ない、合衆国の議会でも演説して、中華明国への支援を訴えた。蒋介石本人は、英語がまったく分からなかったので、アメリカ人やヨーロッパ人を相手に政治交渉するときは、宋美齢が『総統代理』の役割を果たしたのである。1943年11月にエジプトのカイロで開催された『カイロ会談 [Cairo Declaration]』でも、蒋介石に同伴した。まさに『聖女』である。

2週間監禁されたあと、12月26日、蒋介石は、無事に、南京に生還する。多くの民衆が、手を振って歓迎した。蒋介石は、このとき、精神的に疲れたのか、「すべての自分の職務の辞職」を希望したが、中国人たちは、認めなかった。

【孫中山の妻だった『宋慶齢 [Soong Ching-ling] [Song Qing-ling](そう・けいれい / A.D.1893-1981)は宋美齢の姉で、宋美齢は、孫中山の死後に、蒋介石と結婚した。蒋介石には離婚歴が2回あり、宋美齢は3人目の妻。3人の妻以外に、妾が1人いた。宋子文は、宋美齢の兄で、宋慶齢の弟。台湾時代の第6代・第7代総統:『蒋経国 [Chiang Ching-kuo (Jiang Jing-guo)](しょう・けいこく / A.D.1910-1988)は、蒋介石の長男であるが、生母は、蒋介石の最初の妻:『毛福梅 [Mao Fu-mei](もう・ふくばい / A.D.1882-1939)』。】

【蒋介石には、もう一人、息子がいて、『蒋緯国 [Chiang Wei-kuo (Jiang Wei-guo)](しょう・いこく / A.D.1916-1997)』といい、蒋経国の弟であるが、蒋介石の「養子」であって、「実子」ではない。蒋緯国の実父は、政治家の『戴季陶 [Dai Ji-tao](たい・きとう / A.D.1891-1949]』であり、実母(=生母)は日本人の『重松金子(しげまつ・かねこ / A.D.?-?)』という女性である。ファミリー劇場のような物語があって、1915年から1916年にかけて、袁世凱が独裁体制を敷いて『中華帝国』を建国したとき、孫中山は、日本帝国に『亡命』をしていたのだが、戴季陶も、孫中山の『通訳』として、同行した。戴季陶は、日本語が堪能だったからだ。戴季陶は、その頃24歳前後の若者だったが、すでに既婚者であり、1911年に結婚していて中国国内に中国人の妻がいた。このとき、日本帝国内で、看護婦として働いていた重松金子と仲良くなってしまったのである。これ以上詳しい事情は不明。その後、孫中山と共に、中国に戻るが、そのあとで、重松金子は、日本帝国内で子供を産む。重松金子は、1921年に、5歳くらいの男の子を連れて、中国まで戴季陶に会いに行ったが、戴季陶は、涙を流して、「自分の過ち」を後悔するばかりで、「認知」はできなかった。そこで、蒋介石が、「私の子供として育てよう」と言い出して、引き取ったのである。蒋介石は、自分の妾だった『姚冶誠 [Yao Ye-cheng](よう・やせい / A.D.1889-1972)』が産んだことにして、姚冶誠が育てた。姚冶誠は、自分の子供はできなかったが、蒋緯国を本当の息子のように育てた。蒋緯国は、大人になってから本当の父親と母親が誰なのかを知ったが、その後も、姚冶誠を、本当の母親のように大事にしたのだという。】

【蒋介石の二番目の妻は、『陳潔如 [Chen Jie-ru](ちん・けつじょ / A.D.1906-1971)』。蒋介石よりも、19歳年下の妻だったが、宋美齢と結婚する前に離婚した。のちに、第二次国共内戦で国民革命軍が敗北して台湾に移ったあと、上海に住んでいた陳潔如が、1961年に、周恩来に対して、『香港 [Xiang-gang] [Hong Kong](ホンコン)』への移住を希望すると、周恩来はこれを認め、台湾にいた蒋介石の長男の蒋経国は、この話を聞くと、香港の『九龍 [Jiu-long] [Kowloon]』に豪邸を用意して、陳潔如を保護した。】

約10年間続いていた『国共内戦』は、ここで一旦、停止された。共産党との同盟は、過去に『北伐』を開始する前の1924年にもあったので、2回目である。『第二次国共合作』の成立である。

国民革命軍が、共産軍との「同盟」を成立させ、日本帝国軍への反撃の準備に取りかかると、日本帝国軍もまた、『長城』より南方の、中国の領土への侵略戦争の準備を始めた。もし、ここで、中国人が、『満州帝国』を認めていれば、全面戦争は避けることができたが、中国人たちは、認めなかった。日本帝国の軍人たちもまた、満州を手放す気はまったく無かった。

1937年7月7日、『盧溝橋事変 [Lu-gou Qiao Shi-bian] (七七事変 [Qi Qi Shi-bian])[Marco Polo Bridge Incident]』【日本国では『盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)』と呼ぶ。】が発生。北京の南西約15キロメートルにある『盧溝橋 [Lu-gou Qiao] [Lugou Bridge] [Marco Polo Bridge](ろこうきょう)』という橋の周辺で、日本帝国軍と中華民国軍が交戦した事件である。

【『盧溝橋』は、1192年に完成した石橋。13世紀に、『マルコ・ポーロ [Marco Polo](A.D.1254-1324)』が、著書:『東方見聞録(とうほうけんぶんろく) [The Travels of Marco Polo]』の中で、この盧溝橋のことを、「世界中どこを探しても無いほどの見事な橋だ」褒め称(たた)えたので、その後、ヨーロッパでは、盧溝橋のことを「マルコ・ポーロ橋」と呼ぶようになった。】

【余談だが、日本の事を英語で「Japan」と表記することに関しては、マルコ・ポーロと関係がある。マルコ・ポーロは、日本国は訪問しておらず、中国で、日本国の『噂』を聞いた。マルコ・ポーロが中国を訪問したのは、中国の『元朝 [Yuan Chao] [Yuan Dynasty](げんちょう)』の時代だったが、中国人が説明する『日本国 [Ri-ben Guo]』という発音を聞いたイタリア人のマルコ・ポーロの耳には、『ジパング [Zipangu] [Cipango] [Cipangu] [Chipangu]』と聞こえたので、著書の中で「ジパング」と紹介した。その発音が、のちに、英語で「Japan(ジャパン)」になったのである。 <注意>もちろん、「ジャパン」という英語表記に関して、この説明以外にも、いろいろな「仮説」がある。】

日本帝国軍は、遂に、『長城』を超えて、侵略を開始した。

この日から1945年8月15日まで、8年間、日本帝国と中華民国が、死力を尽くして戦うことになる。この8年間の大戦争を、日本国では『日中戦争(にっちゅうせんそう)』と呼び、中国では『抗日戦争 [Kang-ri Zhan-zheng](こうにちせんそう)』と呼び、英語では、『Second Sino-Japanese War(第二次の中国と日本の戦争)』【「First(第一次)」は、日本で『日清戦争(にっしんせんそう)(中国では『甲午戦争 Jia-wu Zhan-zheng])』と呼んでいる戦争。】と呼ぶ。日本帝国も、中華民国も、国民を総動員して、総力戦を展開した。

日本帝国軍は、数週間で、北京市と天津市を制圧し、その後、更に、上海市にも侵攻を開始した。中華民国軍は、支え切れずに後退を続け、12月13日には、首都の南京市が陥落した。

蒋介石は、首都を『重慶市 [Chong-qing Shi] [Chongqing City](じゅうけい・し)』に移して抵抗を続けた。日本帝国軍は、国民政府に、「停戦交渉」を呼び掛けるが、蒋介石は、「徹底抗戦」を主張し続けた。

そこで、日本帝国軍は、南京市を超えて、内陸部への侵攻を開始した。

高性能の『戦闘機』や『爆撃機』を使用して攻撃を加える日本帝国軍に対して、中華民国軍は、性能の悪い戦闘機しか持っていなかったので、まともに戦えなかった。日本帝国軍は、1938年4月、『徐州市 [Xu-zhou Shi] [Xuzhou City](じょしゅう・し)』へ進撃、5月に占領。同じ月、『廈門市 [Xia-men Shi] [Xiamen City](あもい・し)』を攻略。

1938年6月、日本帝国軍は、『開封市 [Kai-feng Shi] [Kaifeng City](かいほう・し)』と『鄭州市 [Zheng-zhou Shi] [Zhengzhou City](ていしゅう・し)』を占領すると、次に、進路を南に取り、武漢市に向かって進撃を開始した。このとき、蒋介石は、『黄河決壊作戦』という、異常な作戦を決行した。

それは、「人為的に、『黄河 [Huang He] [Yellow River](こうが)』の堤防を決壊させて、周辺の町を水没させてしまう」、という作戦である。このとき、家屋を失った中国人は、「480万人」に達し、死者や行方不明者の人数は不明だが、「あらかじめ避難させて、人的被害は最小限に食い止めた」と考えるのが自然であろう。とにかく、蒋介石の目的は、『華北 [North China](かほく)』【中国の北部。】の日本帝国軍が、南に向かって進撃をすることを食い止めることだった。華北の日本帝国軍は、蒋介石の思惑通り、南に向かうのを断念し、『華中 [Central China](かちゅう)』の日本帝国軍は、『長江(=揚子江) [Chang Jiang (Yang-zi Jiang)] [Yangtze River](ちょうこう / ようすこう)』の両岸に沿って、西に向かった。

蒋介石の目的は、こういうことだった。華北の日本帝国軍と、華中の日本帝国軍が、占領した領土を、『面』として確保することを不可能にする。すなわち、華中の日本帝国軍が長江に沿って西へ進む事によって、『点と線』とでしか、占領地を確保することができないようにする。そうすれば、長江沿いの主要都市を占領しても、北側と南側から、常に中華民国軍の攻撃を受け続けるので、占領政策は安定しない。また、安定しない占領状態で、西に向かって進撃を続けても、補給線が伸び切って、進撃速度は鈍ってくる。

中華民国軍の兵器と、日本帝国軍の兵器の違いを比較すると、まともに戦っていたら、絶対に勝ち目はない。蒋介石は、「一カ所での決戦」という方法を避けて、都市を放棄しながら、兵力を温存した状態で、西へ退却し続けて、日本帝国軍を内陸部へ誘い込んで、長江の両岸に沿って、西へ戦力を展開させ、その状態で、北と南から、日本帝国軍の補給部隊を攻撃し続ける・・・・・という、奇妙な作戦を実行したのである。その作戦を成功させるためには、どうしても、華北の日本帝国軍が、南に向かうのを防ぐ必要があった。そのため、黄河の堤防を決壊させて、周辺の町を水没させ、華北の日本帝国軍が、南に向かって進撃できないようにして、中国の中央部を『面』として占領することができないようにしたのである。

それは、まるで、中国文明圏における特殊なボードゲーム、『囲碁 [Wei-qi](いご)』からヒントを得たような作戦だった。囲碁では、石を直線状に並べても、陣地を増やすことはできない。途中で石の配列をカーブさせて、『面』の形で石を並べる必要があるのである。だから、筆者は、蒋介石が、囲碁というボードゲームをヒントにして、日本帝国軍と戦おうとしたのではないかと推理する。日本人も、昔から『囲碁』を楽しんでいたが、蒋介石の作戦に気付いていたかどうかは不明。【この部分の解説は、筆者による独創的な推理によるもの。】

1938年10月、日本帝国軍の南方を進撃する部隊が、広州市を占領。

1938年12月18日、国民党の中のナンバー2の地位にいた『汪精衛 [Wang Ching-wei (Wan Jing-wei)](おう・せいえい / A.D.1883-1944)』が、重慶市を脱出して、ベトナムのハノイへ飛んだ。日本帝国との『和平』に応じたのである。そして、南京で新政権を設立するための準備に取り掛かった。

この汪精衛の「裏切り」は、現在でも謎とされているが、筆者の『推理』は、こうだ。まず、第一に、半年前の6月の湖南省における『黄河決壊作戦』を見て、「これほど農民たちを犠牲にしてまで、日本帝国に対して抗戦し続ける意味があるのか?」という疑問を抱いたことである。第二に、おそらく、日本帝国からは、こういう『説得』があったのだ。それは、「満州帝国を承認すれば、国民革命軍と共に、共産軍を撃滅して、日本帝国軍は、『長城』より南方に対する侵略行為を中止して、話し合いで解決する用意がある」というものである。これならば、国民党ナンバー2の実力者:汪精衛が、日本帝国との和平に応じる理由になり得る。筆者は、「決して、自分が総統に成りたくて裏切ったのではない」と、推理する。また、蒋介石が、そのような個人的な利益を優先する人物を、ナンバー2の地位に就けておくはずがない。汪精衛は、中国全体のことを考えて、日本帝国との和平に応じたのだと推理する。

1939年1月、日本帝国軍は、爆撃機による重慶市への空襲を開始。2月、『海南島 [Hai-nan Dao] [Hainan Island]』を占領。3月、南昌市を占領。

こうして、どんどん、内陸部への進撃を続けるが、中国の領土は広大であり、次第に、日本帝国陸軍は、補給線が伸び切って、進撃速度が鈍り始めた。

蒋介石の戦略は、こうだった。すなわち、首都においても、他の重要な戦略拠点においても、「全滅覚悟で戦う」という方針を取らず、「兵力を温存した状態で、拠点を放棄して、西へ後退する」・・・・・という作戦である。

日本帝国軍は、どこかの戦略拠点で、一気に中華民国軍を殲滅(せんめつ)して、政治交渉を始めたかったのだが、蒋介石は、徹底的に抗戦を続けて、話し合いを始めなかった。

中華民国軍は、兵力を温存しながら後退するので、日本帝国軍は、どうしても、敵軍を追いかけて、内陸部へ進撃し続けなければならない。しかし、次第に補給線が伸び切って、進撃速度が鈍ってきたのである。

日本帝国軍は、『長城』よりも南方の領域で、上海、天津、南京、徐州、廈門、開封、鄭州、武漢、広東、海南島、南昌などを占領していたが、蒋介石がまったく降伏する気配を見せないので、長期戦を覚悟しなければならなくなってきた。

蒋介石は、外交的にも、日本帝国に対して、反撃を開始していた。すなわち、中華民国の『駐米全権大使』として、『胡適 [Hu Shih (Hu Shi)](こ・せき / A.D.1891-1962)』を起用し、アメリカ合衆国からの経済支援を取り付ける交渉を始めたのである。

ヨーロッパでは、『アドルフ・ヒトラー [Adolf Hitler](A.D.1889-1945)』が率いる『国家社会主義ドイツ労働者党 [<English> National Socialist German Workers' Party] [<German> Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei / N.S.D.A.P. (="Nazi")]』、いわゆる『ナチス党 [Nazi Party]』が、1933年1月、『ワイマール共和国 [Weimar Republic]』における民主主義選挙で勝利すると、ヒトラーが内閣総理大臣に就任したが、2ヶ月後の3月23日に『全権委任法(ぜんけんいにんほう) [Enabling Act of 1933]』を制定して独裁体制を固めた。

そして、ヒトラーは、新しい国家:『ナチス・ドイツ [Nazi Germany]』の『総統 [<German> Fuhrer]』に就任すると、1938年3月、オーストリアを占領し、9月には、チェコスロバキアのズデーテン地方、更に、1939年3月には、チェコスロバキア全土を占領した。

ナチスは、1939年5月、『ファシスト・イタリア [Fascist Italy](=『イタリア王国 [Kingdom of Italy]』)』と軍事同盟を締結。『ファシスト党 [<English> National Fascist Party] [<Italian> Partito Nazionale Fascista (P.N.F.)]』の指導者は『ベニート・ムッソリーニ [Benito Mussolini](A.D.1883-1945)』であり、「古代ローマ帝国の復活」を目標としていた。

ナチスは、1939年2月に、「満州帝国を承認する」と表明したので、日本帝国は、ナチスに接近し始め、全世界は、ナチス、ファシスト、日本帝国を中心とする『枢軸国(すうじくこく) [The Axis Powers]』と、合衆国、連合王国、中華民国を中心とする『連合国 [The Allies]』の、2つの勢力に分かれ始める。ソビエト連邦は、第二次世界大戦の途中から、連合国側に加わった。それまでは、ナチスとは敵対していなかった。

最初、連合国の中で、中華民国の地位は低く、あまり発言力は無かったのだが、第二次世界大戦の最中(さなか)に、蒋介石が努力して、発言力をかなり高めた。事実、中華民国が、日本帝国の多くの兵力を長期間引き付けたことは、連合国全体の戦局に対して大きく貢献していたのである。アメリカ合衆国や連合王国からいろいろな支援を受けていたものの、中華民国が日本帝国の大軍を中国内陸部に釘付けしていたという功績は、連合国の各政府も認めるしかなかった。

そして、1939年8月23日、ナチスは、ソビエト連邦と『不可侵条約 [Non-Aggression Pact]』【互いに相手国を侵略しない、という約束。】を締結すると、9月1日、ポーランドへ侵攻。これにより、ヨーロッパ全体が大戦争の状態に陥る。しかし、まだ、アメリカ合衆国は、「ヨーロッパのケンカには関わりたくない」という理由で、『中立』の態度を取り続けていた。

蒋介石は、アメリカ合衆国の支援を更に拡大するため、妻の兄である、宗子文を、合衆国へ送り込んだ。宗子文は、軍人ではなく、国民党の財政を担当していた人物である。宗子文は、胡適と共に、合衆国で、勢力的な活動を行い、ルーズベルト政権から、多くの経済支援を取り付けることに成功した。

1940年3月30日、南京において、汪精衛を『主席代理』として、新しい国民政府の設立式を執り行った。なぜ『主席』の地位を空けておいたのかというと、重慶の蒋介石が、日本帝国との和平に応じれば、あくまでも、『主席』は、蒋介石が就くことにしていたからである。汪精衛は、中国全土に、日本帝国との和平に応じるように呼び掛けた。

一部の中国人は、汪精衛の考えに同調して南京に集まって来たが、それはごく僅かであり、ほとんどの中国人は、「徹底抗戦」を唱える蒋介石の考えを支持したので、南京の新政府は、孤立してしまう。もちろん、共産党も、まったく同意しない。

7ヶ月後の1940年11月、汪精衛は、蒋介石の『合流』を諦めて、自分が『主席』に就任し、日本帝国政府も、内閣総理大臣:『近衛文麿(このえ・ふみまろ / A.D.1891-1945)』の政権が、11月30日、汪精衛政権との間に、『日華基本条約』を締結して、汪精衛政権を「中華民国の正当な政権」と認めた。

しかし、このとき、アメリカ合衆国の大統領:『フランクリン・ルーズベルト [Franklin Delano Roosevelt](A.D.1882-1945)』の政権は、汪精衛政権を『否認』した。そして、1941年3月、世界大戦に対して「中立」を保ってきた合衆国は、『武器貸与法』を成立させた。これは、

「合衆国の国防に関して重要だと判断される場合、外国の国家に対して軍需品の貸与を認める。」

という法律である。4月15日、ルーズベルトは、宋子文と胡適を呼び、4500万ドル相当の軍用機材を、蒋介石が指揮する中華民国軍に貸与することを通知した。5月には、4540万ドル相当の武器・弾薬の援助を決定した。こうして、『中華民国:汪精衛政権』は、合衆国からも見放されることになる。

1940年6月22日、フランスが、ナチスに対して降伏し、『1940年6月22日休戦協定 [Armistice of 22 June 1940]』を締結。フランスの『ヴァシー政権 [Vichy France]』は、ナチスに対して大きな譲歩をする見返りに、政権の存続を許可された。もちろん、「ナチスの許可が無ければ、何もできない」という政権である。

ナチスは、次の目標として、連合王国の攻略に取り掛かった。まず、主要都市への空襲、および、連合王国軍の戦闘機の撃墜を目的として、航空戦を挑み、連合王国軍の航空部隊を撃滅して、『制空権 [mastery of the air]』を掌握してから、輸送艦隊がドーバー海峡を通って、『グレート・ブリテン島 [Great Britain Island]』の南岸に上陸部隊を送り込む、という作戦である。

1940年7月10日、『バトル・オブ・ブリテン [Battle of Britain]』が開始された。ナチス軍の戦闘機と爆撃機:約2500機、連合王国軍の戦闘機と爆撃機:約2000機、両軍合わせて4500機が戦うという、人類史上最大の空中戦である。

連合王国首相:『ウィンストン・チャーチル [Winston Churchill](A.D.1874-1965)』は、ヒトラーの脅しに屈することなく、『葉巻 [cigar]』を口に銜(くわ)えながら、徹底的に反撃を続けた。チャーチルは、「政治家」というよりも、「軍人」だった。若い頃には、『第二次ボーア戦争 [Second Boer War](A.D.1899-1902)』などにも参加していた。第一次世界大戦のときは、海軍大臣として、軍隊を指揮していた。

連合王国軍は、「パイロットが足りない」ということで、外国人パイロットの『義勇兵 [volunteer]』を募集した。ポーランドから145人、ニュージーランドから127人、カナダから112人、チェコスロバキアから88人、オーストラリアから32人、ベルギーから28人、『南アフリカ連邦 [Union of South Africa]』から25人、フランスから13人、アイルランドから10人、アメリカ合衆国から7人、『南ローデシア [Southern Rhodesia]』から3人、ジャマイカから1人、『イギリス委任統治領パレスチナ [British Mandate for Palestine]』から1人、バルバドスから1人が参加した。外国人パイロットの合計は、「593人」である。

3ヶ月と3週間に及ぶ総力戦で、ナチス軍が撃墜した連合王国軍の戦闘機と爆撃機は、合計、約1600機、墜落しなかった約400機も、ほとんどが損傷。連合王国軍が撃墜したナチス軍の戦闘機と爆撃機は、約1900機、墜落しなかった約600機も、多くが損傷した。戦死したパイロットの人数は、連合王国軍と外国人義勇兵の合計、約1600人、負傷、約400人。ナチス軍が、戦死、約2700人、負傷、約600人、捕虜になった者、約1000人。連合王国側は、民間人にも犠牲者が出た。連合王国の民間人の死者は、約4万人、負傷者は、約5万人に達した。

開戦以来、快進撃を続けていたナチスは、1940年10月31日、連合王国への上陸作戦を断念した。

『バトル・オブ・ブリテン』の最中(さなか)、1940年9月27日、ナチス、ファシスト、日本帝国が、『三国同盟 [Tripartite Pact]』を締結。これ以前に、すでに、1936年11月に、ナチスと日本帝国は『防共協定 [Anti-Comintern Pact]』【『防共 [Anti-Comintern]』とは、「共産主義思想の侵入を防ぐ」という意味。】を締結し、続いて1937年11月、ナチスと日本帝国とファシストの間で、『三国防共協定』を締結してあったが、更に軍事的な結束を強めるために、『軍事同盟』を締結した。

合衆国や連合王国からの、中華民国に対する軍事物資は、『フランス領インドシナ [French Indochina]』【日本側の呼称は『仏印(ふついん)』で、現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領土。】を通って運ばれていた。日本帝国は、フランスの『ヴァシー政権』と交渉して許可を取り、1940年9月23日から、フランス領インドシナの領土内の北部へ進駐を開始した。これによって、中華民国は、合衆国や連合王国から送られる軍事物資を受け取れなくなった。

1941年1月4日から10日にかけて、「国民革命軍が共産軍を攻撃して、共産軍の約2千人が戦死し、約5千人が捕虜になる」という軍事衝突事件が発生した。『皖南事変 [ [Wan-nan Shi-bian] [Wannan Incident](かんなん・じへん)』である。

長江の支流である『皖水 [Wan-Shui](かんすい)』という川の南側で起こった軍事衝突なので『皖南事変』という。

この時期、国民革命軍と共産軍は、一応、確かに、『同盟』を組んでいたのだが、実際は、裏でいろいろな駆け引きをやっていて、行動が一致していなかった。蒋介石は、毛沢東に対して、「国民革命軍の命令に従え」と要求していたが、毛沢東は、「形の上では、国民革命軍に中の一軍団として所属はするが、命令には従わない」と反発していて、勝手に行動していたのである。

共産軍の主力部隊は、中国の北部で、日本帝国軍と戦っていた。

『華北』、つまり、「満州帝国の外側の南西方向」では、国民革命軍が日本帝国軍に苦戦していて、「日本帝国軍に敗北した国民革命軍の兵士たちが、『中華民国軍:八路軍(はちろぐん) [Ba-lu-jun] [Eighth Route Army]』に編入されていったのである。その『八路軍』というのは、『共産軍』の、中華民国軍における、正式名称である。この戦いによって、『第二次合作』の直前に滅亡しかかっていた共産軍は、次第に、兵力を増やし始めた。つまり、日本帝国軍が勝利していたことが原因で、逆に、共産軍は、兵力の増強が可能になったわけである。

蒋介石は、当然、毛沢東の、このやり方に不満を持っていた。日本帝国軍との『抗日戦争』を利用して、どさくさに紛れて、共産軍の兵力を増やすつもりなのだ。

毛沢東は毛沢東で、こちらも、非常に頭が良かった。現在は、名目だけは、確かに、「共産軍」というのは、「中華民国軍の一軍団を担当する、正式な軍隊」なのである。日本帝国軍に敗北して逃げてきた国民革命軍の兵士たちも、「所属する軍団を変更する」というだけの話であり、この対応に対して、中華民国軍司令部が、文句を言う理由は無い。そして、日本帝国軍に殺されそうになった兵士たちを、共産軍が助けるわけであるから、その兵士たちは、そのまま、共産党の共産主義に忠誠を誓うのは、自然の成り行きである。

そして、この現象は、『華中』つまり、「黄河の南側、長江の北側の領域」でも、まったく同じ現象が起こっていた。共産党は、この地方に、『新編第四軍 [Xin-bian Di-si-jun] [New Fourth Army]』、通称『新四軍 [Xin-si-jun]』という軍団を持っていたのだが、『江蘇省 [Jiang-su Sheng] [Jiangsu Province](こうそ・しょう)』から『安徽省 [An-hui Sheng] [Anhui Province](あんき・しょう)』にかけて、どんどん、兵力が膨らんでいく状態になっていた。

蒋介石は、『抗日戦争』の混乱の中で、華北の八路軍と、華中の新四軍の勢力が合体して、強大な軍隊が出現することを恐れた。これでは、もし、自分の『長江沿いに誘い込む作戦』で、日本帝国軍に勝利しても、そのあとで、必ず、共産軍が国民革命軍に戦いを挑んでくるであろう。従って、今のうちに、華中の新四軍を潰しておきたかった。

そこで、蒋介石は、「中華民国軍の総司令官」として、「中華明国軍:新四軍」に対して、こういう「命令」を発令した。

1.1940年12月31日までに、新四軍は長江よりも北側へ移動し、八路軍は黄河よりも北側へ移動せよ。

2.1941年1月31日までに、新四軍は、更に、黄河よりも北側へ移動せよ。

共産軍は、蒋介石が、共産軍の勢力が拡大するのを恐れていることを感じ取っていたと思われる。そこで、この命令に対しては、素直に、「命令に従う」と、連絡して、移動の準備を始めた。

そして、新四軍の約9千人が、1月にはいってから、長江の北側へ移動を始めた。ところが、国民革命軍は、

「新四軍は、『12月31日までに移動せよ』という命令を無視した。」

と判断して、突如、約8万人で攻撃を加えたのである。新四軍の軍団長は『葉挺 [Ye Ting](よう・てい / 1896-1946)』、副軍団長は『項英 [Xiang Ying](こう・えい / A.D.1898-1941)』だったが、葉挺は国民革命軍の捕虜になり、項英は戦死した。約2千人が戦死し、約5千人が捕虜となり、残りの約2千人は、国民革命軍の追撃を逃れて華北へ向かった。

アメリカ合衆国、連合王国、ソビエト連邦政府は、この『皖南事変』を聞くと、蒋介石に対して、「日本帝国軍と戦っている最中(さいちゅう)に、中華民国軍同士で、このような軍事衝突を起こすべきではない」と、懸念(けねん)を表明したが、蒋介石は、1月27日、公式表明を出した。。

「これは、中華民国軍全体の規律を粛正(しゅくせい)するための行動であり、いかなる政治性も帯びるものではない。国民政府の法令を守る限り、政府は、すべての個人、団体、政党を尊重する。しかし、武装力を使用して法令に違反する行為に対しては、正式な法律の手続きを通して、処置する。」

それは、つまり、毛沢東に対して、

「抗日戦争のどさくさに紛れて、共産軍を増強することは、絶対に認めない。」

という、牽制(けんせい)だった。

『第二次国共合作』の当初から、国民革命軍と共産軍は、かみ合わなかったのだが、この事件を境に、中国国内の戦争は、実際は、『日本帝国軍』と『国民革命軍』と『共産軍』が、互いに戦い合う『三つ巴(みつどもえ)』の状態になっていった。

壊滅した『新四軍』は、『陳毅 [Chen Yi](ちん・き / A.D.1901-1972)』が建て直した。

1941年4月13日、日本帝国と、ソビエト連邦は、『日ソ中立条約 [Soviet-Japanese Neutrality Pact]』を締結。

1941年6月22日、連合王国、すなわち、西方への侵攻作戦を断念したナチスは、突如、東方のソビエト連邦への侵攻を開始した。『バルバロッサ作戦 [Operation Barbarossa]』の発動である。ソビエト連邦とは、『不可侵条約』を結んであったのだが、これを無視して、『騙し討ちによる奇襲攻撃』という形での戦争開始だった。

ソビエト連邦:第2代最高指導者『ヨシフ・スターリン [Joseph Stalin](A.D.1878-1953)』は、最初、かなり慌てたのだが、日本帝国とは、2ヶ月前に『中立条約』を結んでいたし、日本帝国内に送り込んであるスパイ:『リヒャルト・ゾルゲ [Richard Sorge](A.D.1895-1944)』からも、「日本帝国は東南アジアの資源地帯を狙っている」という報告があったので、「東の方から日本帝国が攻め込んでくる可能性は低い」と、判断して、戦力を西部へ集中させた。

ナチスとソビエトの戦いは、両軍合わせて1000万人以上が戦争に参加する総力戦になり、この日から、1945年5月8日のナチス降伏まで、約4年間続いた。

1941年7月28日、日本帝国は、フランス領インドシナの領土内の南部への進駐を開始した。

1941年8月、合衆国は、日本帝国に対する石油の輸出を全面的に禁止した。アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中華民国(China)、オランダ(Dutch)による、日本帝国への経済封鎖政策は、『ABCD包囲網 [ABCD Encirclement]』と呼ばれた。日本帝国は、これによって、

「中国から全兵力を撤収して、満州帝国も解体して、合衆国や連合王国との貿易を再開するか、それとも、石油資源を確保するために、インドネシアまで侵攻して、連合国との全面戦争にはいるか?」

という、選択に迫られた。

1941年10月18日、(第三次)近衛内閣が総辞職。同日、近衛内閣で陸軍大臣を務めていた、『東條英機(とうじょう・ひでき / A.D.1884-1948)』が、第40代内閣総理大臣に就任した。

1941年12月7日(日本時間12月8日)、日本帝国とアメリカ合衆国は、ワシントンDCで、まだ話し合いを続けていた。その日、日本帝国軍の航空母艦6隻が、艦載機350機を飛ばして、『ハワイ諸島 [Hawaiian Islands(ハワイアン諸島)]』の『オアフ島 [Oahu Island]』にある『真珠湾 [Pearl Harbor](しんじゅわん)』を攻撃した。

これは、ナチスのバルバロッサ作戦のように、『騙し討ちの奇襲攻撃』であったが、ナチスと違って、計画的な行動ではなく、実際は、合衆国の日本大使館が暗号電信の解読と、タイプライターによる文書の作成に手間取って、『最後通牒(さいごつうちょう) [ultimatum]』の提出が遅れただけ・・・・・という、お粗末なミスが原因だったらしい。しかし、合衆国の政治家も、国民も、猛烈に激怒して、終戦まで、その怒りが続いてしまった。

合衆国軍の、ハワイ基地の司令官たちは、この攻撃を、まったく予測していなかったのだが、しかし、合衆国軍全体としては、「日本帝国が、戦争を仕掛けてくる可能性は非常に高い」という、予測は、していた。ただし、「その場合、フィリピンのアメリカ軍を狙うだろう」と、予想していて、まさか航空母艦をハワイまで動かして、艦載機の爆弾と魚雷で攻撃するとは、予想していなかったのである。

『太平洋戦争』に関しては、このページでは、詳細を省略するが、概略は、こうだ。

日本帝国軍は、インドネシアの油田地帯を占領したあと、オーストラリア大陸の隣のソロモン諸島まで攻め込んだが、開戦半年後辺りから、アメリカ軍が逆襲に転じて、日本帝国軍が占領した島々をどんどん占領していき、1944年7月22日には、東条内閣が総辞職、そして、最後は、沖縄島を占領したあと、原子爆弾を、広島市(1945年8月6日)と、長崎市(同年8月9日)に投下して、日本帝国内では、1945年8月15日に、天皇が、ラジオ放送で、全国民に、「連合国に対して降伏する」と表明し、9月2日、調印式が行われて、日本帝国の敗北で終わった。

8月15日の天皇の肉声によるラジオ放送を、『玉音放送(ぎょくおんほうそう) [<English> Gyokuon Hoso]』と呼ぶ。

中華民国を代表して、9月2日の調印式に出席したのは、『徐永昌 [Xu Yong-chang](じょ・えいしょう / A.D.1885-1959)』だった。

この間、中華民国軍は、苦しい戦いを続けていたが、1941年12月からは、合衆国からの義勇兵パイロット約100人で編成された『フライング・タイガース [Flying Tigers](中国名『飛虎隊 [Fei-hu-dui]』)』も一緒に戦い、日本帝国軍の猛攻から祖国を守った。

ヨーロッパでは、1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦。そして、ファシストは、1944年9月8日に降伏、ナチスも、1945年5月8日に降伏した。

【日本帝国を含めて、ナチスやファシストが、「何月何日に降伏したか?」という日付に関しては、国際的に一致しておらず、各国で見解が異なる場合が多い。たとえば、「第二次世界大戦が終結した日付」に関しては、日本国以外は、調印式が行われた「9月2日」、あるいは、その翌日の「9月3日」としている国が多いが、日本国では玉音放送が行なわれた「8月15日」としている。】

ところが、中国では、日本帝国の降伏のときから、『第二次国共内戦』が始まる。

1945年8月10日、すなわち、『玉音放送』の5日前、つまり、長崎市に原子爆弾が投下された翌日、中国で、日本帝国から連合国に向けて送信された、ある電文が『傍受(ぼうじゅ) [interception]』された。その内容は、「ポツダム宣言を受諾する」という内容だった。

八路軍の総司令官:『朱徳 [Zhu De](しゅ・とく / A.D.1886-1976)』は、翌8月11日、共産軍全軍に出撃命令を出した。目標は、「満州帝国の占領」である。

同日、8月11日、蒋介石は、『中華民国軍:八路軍』に対して、「現地に駐屯して、中華民国軍:司令部からの命令を待て」と、命じた。しかし、朱徳は、すぐにこの命令を拒否した。

八路軍は、「中華民国軍を代表して、満州地方に駐留している日本帝国軍の所持品の『接収(せっしゅう) [requisition]』を行なう」という名目(めいもく)で、満州に進攻した。

一方、『国民革命軍』もまた、満州に進攻し、8月下旬から、共産軍と国民革命軍との間で戦闘が開始された。

1945年、すなわち、満州帝国の暦(こよみ)で『康徳(こうとく)12年』、8月18日、康徳帝、すなわち、愛新覚羅溥儀が『退位』を宣言して、13年間続いた満州帝国は滅亡した。

愛新覚羅溥儀は、その後、連合国によって軍事裁判に掛けられたあと、「日本帝国の戦争犯罪に協力した」という理由で、中国国内の刑務所に9年間収容されたが、その後、1959年に釈放されて、『北京植物園 [Bei-jing Dong-wu-yuan] [Beijing Zoo]』の『庭師』として平凡な生活を送った。その後の生活は、中華人民共和国:首相:周恩来が庇護(ひご)した。愛新覚羅溥儀が満州で大暴れしてくれたおかげで、共産軍が国民革命軍に滅ぼされずに復活できたわけだから、案外、共産党の幹部たちからは、好かれていたのではなかろうか。1962年、56歳の時、19歳年下で37歳の『李淑賢 [Li Shu-xian](り・しゅくけん / A.D.1925-1997)』と結婚した。周恩来首相も、二人を祝福した。5年後の1967年、李淑賢に看取られながら、61歳で病死。最後の最後まで、ドラマティックな人物だった。

重慶市では、1945年8月28日から、蒋介石と毛沢東による話し合いが始まっていたが、満州地方では、もうすでに、国民革命軍と共産軍が戦闘を始めていたのである。

満州地方では、国民革命軍が、一時勝利したものの、すでに『抗日戦争』の間に、共産軍の兵力は百二十万人を超えるまでになり、国民革命軍の兵力は、まだ四百万人を保っていたが、中華民国の国民たちは、次第に、毛沢東を支持するようになり始めた。

共産党の理想は、

「貧富の格差の無い理想世界。」

「働けば、必ずそれだけ報(むく)いられ、自分が努力したものを、雇い主に横取りされることはない。」

「金持ちになりたいと思うから、醜い争いが起こるのであり、みんなが同じ生活レベルなら、そのような争いも起こらなくなる。」

そういった政策である。しかし、蒋介石、つまりそれは、孫中山の思想でもあるが、国民党が掲げる『三民主義(さんみんしゅぎ) [Three Principles of the People]』という思想は、現実とはかけ離れていて、「理想」ではあっても、「実現」が伴(ともな)わなかった。実際は、清帝国の末期のように、国民党政権の中で、「賄賂(わいろ)」や「権力の私物化」が横行していたのである。抗日戦争の戦後の混乱の中では、それは一層、悪化していた。犯罪行為をやっている者たちも、それをしないと、自分と家族が生活できないのである。

しかし、毛沢東の思想は、「一部の人間が多くの収入を得て、他の人間が貧しい生活を強いられる」という状況を生まなかった。『解放区』と呼ばれた地域の人間は、指導者たちや共産党の幹部たちも含めて、みんなが、同じ貧しさであり、同じ裕福さであったのである。

1947年9月、毛沢東は、『八路軍』や『新四軍』を含む、すべての共産軍の正式名称を、『人民解放軍 [Ren-min Jie-fang-jun] [People's Liberation Army](じんみん・かいほうぐん)』と命名し、『人民解放軍総反抗』を宣言。

1948年から、人民解放軍は、『大反攻』を開始した。3月末までに、満州地方の大部分を攻略、4月には、『河南省 [He-nan Sheng] [Henan Province](こなん・しょう)』の『洛陽市 [Luo-yang Shi] [Luoyang City](らくよう・し)』、『山東省 [Shan-dong Sheng] [Shandong Province](さんとう・しょう)』の『青島市 [Qing-dao Shi] [Qingdao City](チンタオ・し)』、『煙台市 [Yan-tai Shi] [Yantai City](えんたい・し)』などを攻略、9月には、満州地方で最後の大会戦が始まり、11月には、満州地方全域を占領した。12月、徐州市で大会戦、ここでも圧勝。1949年1月には、『長江』の北側の大部分を制圧した。

1949年1月21日、蒋介石は、戦況悪化の責任を取って辞職。しかし、『総統代行』に就任して、あとを引き継いだ李宋仁では、事態が更に悪化するだけで、まったく好転しなかった。李宋仁は、「蒋介石は辞職した」と説明して、共産党との和平を試みたが、失敗。そのため、すぐにまた、蒋介石に戻ってくれるように説得し、蒋介石もまた、これに応じて、再び『総統』の地位に就いた。

1949年4月23日、人民解放軍が、中華民国の首都:南京市を占領。蒋介石は、拠点を広州市に移して、『中国西南部 [Southwest China]』で最後の抵抗を試みる。

1949年10月1日、共産党は、北京市において、『中華人民共和国 [Zhong-hua Ren-min Gong-he-guo] [People's Republic of China](ちゅうか・じんみん・きょうわこく)』の成立を宣言。蒋介石は、そのニュースを、広州市で聞いた。

11月、拠点を『成都市 [Cheng-du Shi] [Chengdu City]](せいと・し)』に移して指揮を執り続けるが、もはや人民解放軍の勝利は決定的だった。

そして、1949年12月8日、国民政府は、遂に、『中華民国』の『首都』を、『台湾島 [Tai-wan Dao] [Taiwan Island](たいわん・とう)』の『台北市 [Tai-bei (Tai-pei) Shi] [Taibei (Taipei) City](タイペイ・し)』へ『遷都(せんと)[transfer of the capital]』することを決定し、12月10日、蒋介石は、長男の蒋経国と共に、成都市を脱出し、台北へ飛んだ。

1950年6月25日、朝鮮半島で、『朝鮮戦争 [Korean War]』が勃発。最初、『北朝鮮 [North Korea(北コリア)]』が勝っていたが、途中から『国際連合軍(主にアメリカ合衆国軍)』が、『大韓民国(韓国) [South Korea(南コリア)]』に味方をして、形勢が逆転した。しかし、その後、『中華人民共和国:人民志願軍』が朝鮮軍に味方をして、1950年10月19日から戦争に参加し、反撃に転じて、『北緯38度線 [38th parallel north]』の辺りで、戦況が膠着(こうちゃく)状態になり、1953年7月27日、『休戦協定』が締結され、現在に至っている。

中国と台湾の戦争と同じで、2015年現在、韓国と北朝鮮の戦争も、正式には、まだ、終わっていない。

1967年10月17日、愛新覚羅溥儀が、61歳(満年齢61歳)で病死。

『国際連合 [United Nations (U.N.)]』は、第二次世界大戦における『連合国』を中心にして、1945年10月24日に発足したが、26年後の1971年10月25日、第26回:国際連合総会において、『国際連合総会2758号決議 [United Nations General Assembly Resolution 2758]』が採択され、『中華民国』に代わって、『中華人民共和国』が、「中国を代表する政府」として、認められた。

1975年4月5日、蒋介石が、88歳(満年齢87歳)で死去。

1976年9月9日、毛沢東が、83歳(満年齢82歳)で死去。

2003年10月24日、宋美齢が、106歳(満年齢106歳)で死去。

2015年11月現在、国際連合からは「中国を代表する政府」とは認められていないが、『中華民国』は、首都を『台北市』とした状態で、まだ存在し続けている。

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1952年頃から、中華人民共和国で、『漢字』の字体(じたい)【文字の形。】の簡略化が進められ、1956年1月、『漢字簡化方案』が公布されて、約600個の漢字を、『簡化字 [Jina-hua-zi](かんかじ) / 簡体字 [Jian-ti-zi](かんたいじ)[<English> Simplified Chinese Character(簡略化された中国の文字)]』に変更した。その後も改定を重ね、1964年に、『簡化字総表』としてまとめられた。

台湾では、現在でも、昔の字体である『繁体字(はんたいじ) [Traditional Chinese Character(伝統的な中国の文字)]』を使用している。

太古から、漢字の字体は、数千年をかけて、「字画」がだんだん、少なくなっていったが、字画が多いと、覚えにくいので、中華人民共和国では、「識字率の向上」を目的に、文字の字画を減らしたのである。

朝鮮半島では、15世紀に、人工的に発明された文字である『ハングル [Hangul]』を使用し始めたが、中国との関係を重視していたので、政治家や軍人、学者たちは、その後も、『繁体字』を使用し続けていた。

ただし、朝鮮半島の人は、漢字を読むときの発音が、中国とは少し違う。中国人の中においても、地域によって、微妙に違っていた。また、日本国における、漢字の『音読み(おんよみ)』というのは、「中国人の発音」を基準にしている。

しかし、韓国と北朝鮮において、第二次世界大戦の終結からは、漢字を使用する人がほとんどいなくなった。現在では、「歴史学者」以外は、ほとんど読めない。中国においても、「どの簡体字は、どの繁体字に当てはまるか?」ということが、分かる人は少ない。

数千年の歴史を持つ『漢字』というのは、「字体の変化」を考慮しない場合でも、「数万個」の種類があり、「字体が違う漢字は、すべてカウントし、中国と、朝鮮半島と、日本列島に存在するすべての書物の中で、1回だけ使用された漢字も含める」という条件だと、「10万個」を超える。

中国語における『文字』の総数は、「人類が使用したすべての言語における、各々の言語の中の文字の数」としては、もっとも多い。例えば『英語』の場合、「大文字」と「小文字」を考慮しなければ、『a, b, c, d, e, f, g, h, i, j, k, l, m, n, o, p, q, r, s, t, u, v, w, x, y, z』の『26文字』だけであり、「大文字」と「小文字」を区別する場合でも、『52文字』だけであるから、漢字が持つ文字の数が、いかに多いかがよく分かる。

また、「一つの漢字における、意味や使用方法」という面でも、時代によって、微妙に変化しているし、中国と、朝鮮半島と、日本列島では、一致していない場合が多い。

その状況の中で、「中国国内で、一般市民が日常生活を送るために覚える必要がある漢字の数」というのは、だいたい、『3千個くらい』かと思われる。

また、平成時代にはいってからは、日本国で、「なるべく漢字を減らして、英語の単語をカタカナにして文章を組み立てる」という動きが強まったので、「難しい漢字」を読める日本人は、激減している。

平成時代の日本人は、「ひらがな」「カタカナ」を多く使うので、日本国で、「一般市民が日常生活を送るために覚える必要がある漢字の数」というのは、『1千個以下』であろうと推測される。

朝鮮半島では「コリア語の発音をハングル文字で表記する」という方法を採用し、中国では「漢字の字画を減らした『簡体字』を開発する」という方法を採用し、日本国では、「なるべく英語の発音をカタカナにした単語を使う」という方法によって、今では、朝鮮半島でも、中国でも、日本国でも、『繁体字』を読める人の数は激減している。

その中において、台湾では、約2000万人が、「字画の多い、伝統的な漢字」をたくさん読むことができるわけであるから、筆者は、『中国文明圏』を研究する学者の立場として、台湾人たちの繁体字に対する読解(どっかい)の能力が、これからも保たれることを希望している。

【『中国文明圏』という言葉は、和英辞書に載っていないが、筆者が翻訳すると、『Chinese Civilization Bloc』になる。主に、中国、台湾、朝鮮半島における文明を示す。重要な宗教は、『道教 [Daojiao] [Taoism]』と、『儒教 [Ru-jiao] [Confucianism]』と、『仏教 [Fo-jiao] [Buddhism]』の、三宗教である。「中国文明圏に日本国を含むかどうか」という問題に関しては、日本国でもっとも重要とされ、昔からの国教である『神道(しんとう) [Shinto] [Shintoism]』が、中国文明とは関係ないので、筆者は、日本国を含めない。】

世界的にも有名な書物である、

『論語 [Lun-yu] [The Analects of Confucius](ろんご)』

『三国志演義 [San-guo-zhi Yan-yi] [Romance of The Three Kingdoms](さんごくし・えんぎ)』

『西遊記 [Xi-you-ji] [Journey To The West](さいゆうき)』

『般若心経 [Bo-re Xin Jing] [Heart Sutra](はんにゃしんぎょう)』

などの『原本(げんぽん) [original book]』は、すべて、『繁体字』で書かれている。

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1962年、蒋介石は、戴季陶の息子:『戴安国 [Dai An-guo](A.D.1913-1984)』を、香港で生活している、自分の二番目の妻:陳潔如の豪邸に、内密に向かわせた。その豪邸は、前年の1961年に蒋経国が用意したものである。戴安国は、一通の手紙を渡した。陳潔如が開封すると、蒋介石が書いた手紙がはいっていた。男と女の個人的な文通であるから、詳しくは分からないが、このような内容だった。

「昔、一緒に困難を乗り越えていた頃、私は、あなたからいろいろと面倒を見てもらっていた。そのことを一瞬たりとも忘れた事はありません。」

陳潔如は、返書を書くと、その手紙を、戴安国に託した。戴安国は、台湾へ戻ると、蒋介石に、手紙を渡した。

「三十年以上に渡る私の苦しみはご存じのことと思います。あなたや国家の名誉のため、私はずっと自分を犠牲にして耐え忍んでいます。」

蒋介石は、何度も「辞職」を希望したことがあり、実際に、2回ほど、本当に辞職して、どこかで静かに生活していた時期があった。

一般的には、それは、「自分がいないと、どうなるか」と、思わせるための「パフォーマンス」だと推理されているようだが、あるいは、本当に、純粋に、「静かな生活」を、願っていたのかも知れない。

そして、もし、誰かが、「国家のために、英語が堪能な才女である宋美齢と結婚する必要があって、それで、陳潔如と離婚したのだ」と推理するならば、それもまた、筆者は、違うと思う。

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蒋介石が『中華民国』を建国したあと、日本帝国軍の力を利用して、毛沢東が『反乱軍』を指揮して、支配領域を拡大し、台湾を含む中国全土の総面積『963万3000平方キロメートル』の内の、『99.6%』に当たる『959万7000平方キロメートル』を、不法に占領している状態が続いている。

しかし、蒋介石の『魂 [soul]』は、これ以上の戦争を望んでいないはずだ。アメリカ合衆国軍と『とある戦略家』が味方に付けば、台湾軍、すなわち中華民国軍は、反乱軍に占拠されている領域を、『奪還』できるかも知れない。

しかし、筆者は、馬英九総統に訴えたいのだ。この辺りで、「中華人民共和国の独立」を、認めてやってもいいのではなかろうか?

きっと、『西安事変』で助かった毛沢東の『魂』もまた、それを望んでいるに違いない。

満州帝国の『独立』を夢見た愛新覚羅溥儀の『魂』もまた、それを望んでいるに違いない。

これが、筆者の、『台湾「独立」問題』に対する『意見』である。


<終>






ADMIN MEMO


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