lil69ili.com - THESIS 012

「アイデアの権利」
< Aidea No Kenri>

"Right Of Idea"





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UPLOAD 2016/03/29





インターネットが発達してくると、筆者がこのサイトで紹介しているような、いろいろな『着想 [idea(アイデア)]』を、PC利用者が、ホームページやブログにおける文章や写真、あるいは、動画で、自分が思い付いたアイデアを紹介するようになってきた。

すると、『TVの時代』には存在しなかったような、トラブルが起こり始める。すなわち、

「二人以上がまったく同じアイデアを紹介した場合、そのアイデアに関しては、誰に権利があるのか?」

こういう問題だ。

インターネットが無かった時代においても、「カップラーメンの構造を、他の会社が盗作した」ということで、裁判になったような事件もある。あるいは、「蟹(かに)料理の店の前の『動く蟹の看板』を真似した」とかいう、裁判もあった。

インターネットの時代になってくると、ほんの小さな『アイデア』でも、『権利』に関して、トラブルが起こる。

喫茶店で働いている人なら、誰でも知っているが、

「卵を茹(ゆ)でたあと、すぐに、水道の流水で、鍋に入れたままの卵を、急激に冷やせば、冷めたあと、皮が剥(む)きやすくなる。」

この『アイデア』でも、確かに、最初に努力をして、その方法を発見した人が存在するわけだ。そして、たぶん、他の人に教えて、だんだん、『クチコミ』で、全世界に広がっていったのである。

しかし、こういうタイプのアイデアの場合、

「権利を主張しても、お金を稼ぐことができるようなアイデアなのか?」

そういう問題が生じる。

しかし、筆者ならば、その、最初の人が、かなり『努力』をしたであろうことは、なんとなく分かる。あるいは、他のアイデアにもよくあることだが、「何かの偶然」で、発見したのかも知れない。

『電子レンジ [microwave oven(マイクロウェーブ・オーブン)]』も、1945年頃に、アメリカ人の『パーシー・スペンサー [Percy Spencer]』が発明したのだが、レーダー装置に使用する『マグネトロン』という電波発信装置の前に立っていた時、たまたま、衣服のポケットの中に、チョコレート・バーがはいっていて、それが溶けたので、偶然、「この原理は、調理に応用できるのでは?」と、思い付いて、そこから、開発が始まった。開発のための実験に使用した調理は、『ポップコーン』だったようだ。


【ウィキペディア】★パーシー・スペンサー


発明家でさえ、何かを思い付くとき、こういう感じの『偶然』で、発見することが、けっこう多い。『万有引力(ばんゆういんりょく)[universal gravitation]』を発見した、『アイザック・ニュートン [Isaac Newton]』のエピソードは、あまりにも有名だ。【ただし、「最近は、「シロウトさんに万有引力を説明するための作り話だ」という意見も多いらしい。】


【ウィキペディア】★万有引力


一般市民でもそうだ。筆者は昔、ある知り合いの男が、喫茶店で一緒にコーヒーを飲んでいて、めちゃくちゃ熱いコーヒーでも、5分くらいで全部飲んでしまって、「さあ帰るぞ」と、急(せ)かすので、急いで飲もうとするが、熱くて飲めないことがあった。なんとか少しずつ、ズルズルと啜(すす)りながら飲んで、10分くらいで全部飲んで、店を出た。何回、喫茶店に行っても、同じことの繰り返しであり、何回目かに、やっと、どうやって数分間で飲めるのかを、教えてくれた。

水の中の氷を、1個、コーヒーに入れていたのだ。「なるほど、それなら、1分でも飲める」と、感心したものだ。本人は、自分では「すごいアイデアだ」と思っていたようで、それで、なかなか他人に教えなかったのだ。筆者は、一応、相手の気分を害さないように、「教えてくれて助かった」と、感謝の言葉を述べておいた。

こういうタイプの『アイデア』もまた、発見者本人は、けっこう、努力をして思い付いたわりには、誰でも簡単にできてしまうので、「自分の努力は報われないのか?」という『不満』が残ることになるであろう。筆者は、周囲の四日市市からは、「頭の悪い精神障害者」と、思われていたので、その男は、「おまえでは、こんなアイデアは思い付かないだろう」と、言って、自慢していた。なかなか教えなかったのは、つまり、「簡単に教えたら、自分の努力はどうなるんだ?」という不満があったからだ。

あの頃は、まだ『昭和時代』であったが、「日本人の『喫茶』の意味は、自分が思っている意味とかなり違う」と思った。確かに、長時間、居座ると、嫌がる店長は多いし、早く帰ってくれたほうが喜ぶ。1時間でも、10分でも、客が支払う料金は同じだからだ。

まあ、その話は、ここでは関係ない。

筆者自身もまた、こういった、

「発見をするまでは、けっこう、努力したのに、他の人が真似をしたら、誰でも簡単にできてしまう。」

というタイプの『アイデア』は、たくさん持っている。それと、21世紀になって、インターネットの時代になってからは、

「発見をするまでは、自分自身では、けっこう、努力したのに、インターネットで、他の人が、すでに、何年も前に、公表していた。」

これも、かなり多い。これは、本当に、多い。かなり多い。

じゃあ、

「自分が研究を始める前に、インターネットで見つけたらいいではないか。」

こう、誰でも考え付くが、

「案外、見つけ出せない。」

というのも、インターネットの真相である。そして、後日、何かのきっかけで、偶然、そのウェブページを見つける、ということもよくある。

こういう感じで、『インターネットと、アイデアの権利』というのは、複雑な問題を起こすわけである。

当然、この複雑な状況を、逆に金儲けに利用しようとする人間も多いわけだ。そういう人間というのは、独特の『考え方』をしている。彼らは、「自分が悪い」という感覚を、まったく持っていない。では、それは、どういう『思想』なのかというと、こういう考え方である。

ここでもっとも注意するべきポイントは、「けっして、アイデアを思い付いた相手をバカにしているつもりではない」ということだ。

「全世界のどこかで、誰かが発見したアイデアを、インターネットで見つけて、そのアイデアを使って、金儲けをした場合、先に発見したその相手は、『実用化する努力』はしなかったのであり、先に実用化して金儲けできるように、システムを『開発』したのは、自分なのであるから、そのアイデアに関しては、実用化した自分に『権利』があるのであり、ただ単に発見してインターネットに掲載した行為に関しては、『0%』という意味ではないが、しかし、基本的には、実用化したほうの自分に、権利がある。」

こういうような<感覚>なのである。おまけに、日本国内では、こういったトラブルは、すべて警察が決めるので、

「普段から、警察関係者と、個人的に、仲良くなっておいて、何かのトラブルが起こったとき、警察を味方に付けて、トラブルになっている相手側に対して、自分の立場を有利に持っていくのは、それは、『オトナの駆け引き』であって、それもまた、一つの『交渉術』である。」

こういう『思想』も、存在するわけである。

そして、実際、我がライバルである『テレビ局関係者』というのは、毎日、日本中のあちこちで、何かの『研究』をしていて、いろいろなアイデアを出し合っているので、確かに、筆者が、インターネットで、何かを公表すると、「以前、同じようなアイデアを、仲間同士で話し合っていた」ということが、実際に、多いわけである。

つまり、「アイデアを公表する形式」ということが、問題なのだ。それは、今の時代、いろいろある。

A. 知り合いの中の数人程度に、アイデアを教えた。

B. 電子メールで、他の誰かに教えた。

C. インターネットのブログやホームページにおける文章、あるいは、音声や動画で公表した。

D. TV番組で紹介してもらった。

E. 雑誌の一部分で紹介してもらった。

F. 単行本、あるいは、CDやDVDを制作して、販売店で販売した。

G. 特許を取得した。

H. 科学雑誌に論文を掲載する、という形で公表した。

この中の、どの『形式』で、判断するのか・・・・・という問題が生じる。

つまり、

@ 時間的に、『最初』なのか?

A 公表したときの『形式』はどうだったのか?

B社会全体に対する『影響力』や、金額に換算した『価値の大きさ』は、どの程度なのか?

C『論文の発表』や、『特許の取得』をしていなくても、法律的に『権利』を主張できるのか?

こういう、非常に複雑な状況が存在する訳である。

だから、『聞けば誰でも簡単にできてしまうアイデア』という場合、扱いが難しい。努力した本人も、まったく何の『報酬』も得られないならば、誰にも教えずに、他の人に見られないようにして、こっそり、自分だけそのアイデアを使い続ける・・・・・という状態にもなりかねない。しかし、それでは、アイデアを発見する意味がなくなる。

また、『アイデア』といっても、『コーヒーに氷を入れる』というレベルから、『電子レンジ』や『万有引力』まで、さまざまなレベルがある。「どの程度ならば、法律で『権利』として守るべきなのか?」というのは、非常に難しい問題だ。

だが、「コーヒーに氷を入れるというアイデアを知り合いに教えた」とか、この程度ならば、法律で守るほどではない。

といっても、もし、そのアイデアが、どんどん、クチコミで広がって、大勢にウケた場合、最初に思い付いた人物に対して、まったく何の『報酬』も得られない・・・・・という状況も、正しいとは思えない。

筆者は、その『コーヒーに氷』というアイデアは、「たぶん、最初に思い付いたのは、『テレビ局関係者』であり、その、もったいぶって、なかなか教えなかった、四日市市民本人ではない」と推理しているが、 【今の日本人は、「他人のアイデアを聞き出すことができた、ということも、一つの実力である」という考え方をするので、他人から教えてもらったアイデアでさえ、もったいぶって、なかなか、他の人には教えない場合が多い。】 それが実際に誰だったのかはともかく、

「社会的な影響力が小さいアイデアだろうが、最初に努力をして発見した人物は、何らかの報酬は受けるべきだ。」

そう、思っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ただ、ここからは、筆者にだけ、当てはまる、特殊な状況の場合である。

筆者の場合、もし、「自分では最初だと思っていたが、先に他の人が発見していた」という場合、争うつもりはない。

「争わない」という場合、それは、「実際は筆者が最初なのに、他の人がインターネットで見て、『実用化』に成功して金儲けをし始めた」という場合、その場合、「争わない」のであるから、「そのまま、争わずに相手の権利を認める」ということになってしまう。

それに関してはどうするのか・・・・・というと、「それも争わずに、『実用化した相手の権利』を認める」というのが、筆者からの回答である。

どうしてか?

みなさんは、そういう態度を見ると、たぶん、筆者を、こう、評価する。

「このサイトのクリエーターは、仏教徒であるらしいから、争わずに、仏さまの『慈愛』の心で、他人に権利を譲っているのだ。なんという、優しいお方なんだろう。こういう人が、極楽浄土へ行けるのだ。」

と、褒めるだろう。

そして、筆者以外の、僧侶だったら、確かに、本当に、その『解釈』で、正しいに違いない。

ところが、筆者の場合、ぜんぜん違う。

今回は、ここからが、主題の話である。

『僧侶』にも、いろいろな『レベル』がある。『一般的な僧侶』と、『菩薩(ぼさつ)[Bodhisattva] レベル』では、ぜんぜん、態度が違ってくるわけである。

キリスト教も、『一般的な神父』と、『大天使 [Archangel] レベル』では、ぜんぜん、存在価値が違う。

それは、こういう『理由』である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

実は、筆者が、インターネットで紹介している『独創的なアイデア』に関しては、

「他人が『自分のアイデアだ』と主張しても、筆者自身にとっては、それほどダメージを受けないレベルだけにしている。」

ということが真相である。難しい状況を説明する場合、諺(ことわざ)で説明したほうが分かりやすい場合もある。つまり、

「氷山の一角」

という意味だ。


【ウィキペディア】★氷山


インターネットで『氷山』の写真を探さなくても、家のガラスコップの中に水を入れて、冷凍庫の氷を1個浮かべたら、分かる。

氷の塊は、水の中では、大部分が水面下にはいっている状態で、浮かぶのである。昔、1912年、豪華客船『タイタニック』は、氷山を避けようとして、水面上の氷の塊は回避できたが、船底が、水面下の氷山の塊に当たって亀裂が生じて、浸水して、沈没したのである。

筆者のアイデアは、まさにそれだ。インターネットで公表しているアイデアは、他人が「自分に権利がある」と主張するならば、争わずに譲る。それは、『水面上の氷の塊』に過ぎない。

具体的に説明すると、こういう意味である。

たとえば、このサイト内の『THESIS 010 「神話の解読法」』で説明した内容だが、

「世界中に残っている神話というのは、実際に存在した事実が書かれている。」

これは、独創でも何でもない。有名な人物は、『ハインリヒ・シュリーマン [Heinrich Schliemann]』である。彼は、「『ギリシャ神話』における『トロイア戦争』は、実際に起こった戦争だ」と、信じ込んで、書かれている内容を忠実に研究して、場所を特定して、自分が推理した場所を掘ったのである。

だから、『神話』に関して、そういう考え方をすること自体は、『独創』ではない。

しかし、

「日本神話の国産み物語は、小惑星『オノゴロ』が、地球に衝突した事実を、地球の原始人に対して説明したものだ。」

・・・・・という『仮説』に関しては、おそらく、筆者以外には、誰も思い付いていない。

これくらいの『レベル』が、筆者が持つアイデアの中で、高いレベルのアイデアである。そして、この程度のアイデアですら、まだ、全体に対しては、低いほうなのだ。

それと、もうひとつ、説明しておくべきことがある。

筆者が、インターネットで公表しているアイデアの中で、

「他の人では思い付かないような高いレベルのアイデアで、実は、書籍に書いてあったのを、見つけただけで、筆者の独創ではない。」

・・・・・という、タイプのアイデアも、けっこう、たくさんある。たとえば、

「『仏教』の開祖は『ブッダ』であるが、『大乗仏教』の開祖は『龍樹(りゅうじゅ)』である。」

これは、筆者の独創ではなく、昭和時代の日本人の仏教学者や僧侶が書いた書籍に載っていたものである。

しかし、「どのタイトルの何ページに書いてあるのか?」ということに関しては、おそらく、全世界の、誰にも見つけられない。もし、いるとしても、全世界で「数人」であろう。

筆者自身もまた、2013年の火災で、そのことを書いてあったノートブックが燃えたので、今では、分からなくなっている。

つまり、

「筆者の独創ではなく、何かの書籍に書いてあったアイデアを、インターネットで紹介しただけだが、しかし、他の人間では、どの書籍の何ページなのかは、見つけられない。」

・・・・・という場合に関して、その場合、これは、『何らかの権利』を、主張する場合がある。もし、他の誰かが、発見できるならば、その相手に権利を譲り、争わないが、まったく誰も発見できない場合は、何らかの権利を主張するだろう。

この場合、筆者の『労働力』は、「教えれば、誰でもすぐに確認できる」というタイプの『アイデア』の部類にはいることになる。書籍を購入して、そのページを捲(めく)れば、確かに、そこに書かれているからだ。

ただし・・・・・またまた、ここで「ただし」なんだが、

「昭和時代の日本人の学者が書いた論文は、完璧に読める人間は少ない。」

という<事実>である。現在の全人類73億人の中で、何人、読めるだろうか? 1万人、いるだろうか? 従って、確かに、「そのタイトルの書籍を購入して、そのページを見れば、誰でも見つけることができる」というレベルのアイデアなんだが、問題なのは、「文章が読めるかどうか?」なのである。読めなければ、その文章が、「龍樹が大乗仏教の開祖である」という内容であるということを、確認できない。

従って、こういう状況の場合、筆者は、必ず、何らかの『権利』を、主張するであろう。

つまり、筆者の場合、

「他の人が、『このアイデアは自分に権利がある』と主張する場合、そのアイデアに関しては、争う必要がまったく無い。」

ということだ。全世界の、73億人全員が、「不可能だ」と、認めることに関してのみ、自分の権利を主張する。そして、それは、他の人間には、絶対に不可能なレベルなのだから、『金額に換算した価値』は、絶大である。それは、一般市民には、想像できないような価値である。

筆者はときどき、自分のサイト内で、文化財の価値を、『オークション』のシステムで説明しているが、その、『インターネットで公表していないレベルのアイデア』もまた、『世界最高級の宝石』に、匹敵する価値を持つ。

だから、「他の人が権利を主張する場合、争うつもりはない。その相手に譲る」と、言っているのである。別に、筆者が、「悟りを開いているから、心が広い」とか、そういう意味にはならない。

ただ、「じゃあ、考古学の研究は、金儲けが目的なんですか?」と聞かれると、それもまた違う。その質問には、簡単に分かりやすく、答えることができる。

ブッダは、誰かに質問されると、逆に質問をすることによって、相手を説得する・・・・・という、特殊な『説法』が、得意だった。キリストは、『例え話』が得意だった。そういう感覚で、分かりやすく答えることができる。

「もし、あなたが、『金持ちには成れるが、天国にははいれない』という場合と、『金持ちにはなれない(貧乏になるという意味ではない)が、天国にはいることができる』という場合の、『どちらかを選べ』と問われたら、どちらを選びますか?」

金持ちになっても、病気になるかも知れないし、事故に遭うかも知れない。自分や家族が事件に巻き込まれるかも知れない。マリア・シャラポワのように、ある日突然、自分の職業を失うかも知れない。そういう『不安』は、金持ちになっても消えない。

しかし、金持ちではなくても、今生きていることに感謝して、自分が続けることができる職業があることに感謝して、なんとか家族全員が平和に生活できるくらいの収入があることに感謝して、休日は、友人や、家族や、会社の同僚と、どこかへ遊びに行って、楽しんできて、年間の地域のお祭りに参加して、世界中のお祭りを見物に行ったりして、楽しく過ごしていられれば、何も不満を持つ必要はない。

明日は明日だ。今日、一日、平和に過ごすことができたなら、今日は、それで『幸運』だったのだから、素直にその事実を、喜べばいいのだ。

じゃあ、別に、「金持ちかどうか?」ということと、「幸福かどうか?」とは、あまり関係が無いだろう。

今の日本人は、そこを勘違いしている。不幸な人に対して、金銭的な支援をすることが『善』だと思い込んでいる。

そうじゃない、そうじゃない。

人間にとって、重要なことは、『食事』ではない。確かに、高級料理を食べることができれば、幸福だ。それはそれで、素直に幸福を感じればいい。

心を貧しく保てば、すべてが『幸運』に思えるものだ。心を貧しくしていれば、大金が転がり込んだときは楽しい。それは、素直に喜べばいいのだ。もし、そのあと、財産が減っても、もともと貧しい心の状態なのだから、別に、不満を感じることもない。

じゃあ、心が貧しい人は、『幸運』だということになる。つまり、「財産が多いか少ないか?」ということと、「心が貧しいか、貪欲(どんよく)か?」ということに、何の関連性もない。それは、その人が、どういう心の持ち方をするかの問題であり、「財産が増えるかどうか?」ということと、「幸福になれるかどうか?」ということは、何の関係も無い。

才能が高い人間が、他の人間よりも金銭的に裕福になるのは、それもまた『権利』ではないのか?

しかし、筆者は、『財産を増やす」ということが『人生の目的』ではない。もし、自分の『人生』が、今この肉体で終わるのであれば、確かに、財産が多いほうがいいと希望するだろう。

しかし、もし、この肉体が死んでも、魂が残るならば、そっちのほうが心配だ。

では、その問題、「魂というのは、存在するのか、しないのか?」という問題を、どうやって、<理論的>に、決着を付けるのか?

2013年に燃えた書籍の中に、昔、ヨーロッパに、バカな学者がいたことが書いてあったのを、思い出した。

死にかけている人間を、『体重計』の上に乗せて、ジーーーーーと、体重計を監視していたのだそうだ。そして、「死んだ瞬間、ほんの何グラムか、体重が減った」ということを、確認したのだそうだ。そして、その学者は、「死んだ瞬間に、体重が減った分、それが、『魂の重さ』である」と、主張したらしい。

倫理的には、この研究方法は、かなり問題が残るし、筆者も、正しいとは思わない。しかし、心情的には、「霊界の問題を理論的に証明する」という方法に挑戦した『勇気』は、称(たた)えたい。

そう、それだ。仏教の『御経(おきょう)』には、中国語で、何が書いてあるのか? その、『霊界』の問題を、『論文』で書いたのである。

仏教も同じだ。「贅沢をするな」とは、言っていない。「贅沢したい、という気持ちを捨てろ」と教えているのだ。それは、「贅沢をすると地獄へ落ちる」という意味ではない。「心を貧しく保っていれば、幸福になれる」という意味である。

「健康か、病弱か?」という問題も同じだ。健康である場合は、そのことに感謝して生活していればいい。病気の場合は、まず、精神的に、落ち込まないことが大事だ。しかし、『魂』を信じない人間は、『死』を怖がる。怖がるから、余計に、体調が悪くなる。

病原体というのは、生物なんだが、『希望の光』を浴びただけで死んでしまう場合がある。病原体は、『絶望の暗闇』が大好きなのだ。

もともと、人間は、「0.1ミリメートルの卵」の状態だったのだ。それが、50センチメートルにまで巨大化すること自体が、もうすでに『奇跡』である。今、生きているのは、そのこと自体がもうすでに『奇跡』なのであるから、『死』は、もともとの、「奇跡が起こらなかった状態」に戻るだけの話だ。

・・・・・と、そう、思うだけでも、ちょっとは、病気が軽くなる。

・・・・・そういうような話をするのは、『医学』ではないだろうか?

助からない人間に、『霊界の話』をするのは、『侮辱』に当たるだろうか? 助からないんだったら、精神的に、楽になるようにするべきではないか?

だから、昔の人は、誰かが死ぬと、確かに「悲しい」という気持ちはあるが、しかし、「天国に行ったのだ」と、本気で信じていたから、「絶望的な悲しさ」という感覚は、無かった。どうせ、生きている人たちも、あとから行くのであるから、「絶望的な悲しさ」という感情にはならない。

「何十年後かには、自分も行くから、またそこで、囲碁を打とう。」

そんなことを、言っていたらしい。それは、今の人間たちが、「絶望的な気分を軽くするための葬式の挨拶」として、しゃべっているような、そういう感覚ではない。昔の人間たちは、本当に、本気で、そう思っていたのだ。

じゃあ、こういう種類の問題を解決するための、一番簡単な方法は、何か?

誰でも分かる。

生きたまま、『霊界』を『体験旅行』ができれば、それは、一番素晴らしい方法だ。もし、そういう『技術』がが存在して、誰かがその技術を習得したならば、その『体験』を、『霊界訪問体験旅行記』として、『書籍』にすればいい。そうすれば、自分自身はその技術を持っていない人たちも、その書籍を読めば、「本当にあるんだ」と、『確認』ができる。

それは、「気分的に、信じるか、信じないか?」というレベルの問題ではない。「書籍の体験記が、本物かどうか?」という問題になる。

もし、本物であれば、読んでいる人自身の『魂』が、何かを感じ取るだろう。

そう、それが、仏教の『御経』なのだ。あの、中国語の論文には、「霊界へ体験旅行する技術」と、そして、「体験旅行の記録」が、書いてあるのだ。

問題なのは、「読めるかどうか?」なのだ。

だが、一人でも、その「千数百年前の、古代中国語」が『翻訳』ができるならば、現代の言語に、翻訳し直せばいい。

そして、その翻訳が、正しく、また、その原本の書籍が、本当に霊界を体験旅行した記録であるならば、現代の言語に翻訳された、その翻訳版は、読む人の魂に、何かを感じさせるだろう。

そして、「どの言語に翻訳するか?」という問題に関しては、全世界の言語の中で、『英語』が、もっとも効果的である。

だから、その『仏教経典群の現代英語翻訳版の書籍』に関しては、筆者の『権利』は絶対的であり、全世界の何者も、妨害できない。筆者にとって、もっとも重要な権利は、この権利だ。この権利だけは、誰も真似できない。

だから、筆者にとって、もっとも重要な意味を持つ国は、仏教経典群で使用されている『繁体字(はんたいじ)』 【字画が多い漢字。】 を国語として使用している『台湾』である。それと、『道教』のシンボルが国旗に使われている、『韓国』である。

だから、筆者の場合、「アイデアの権利」に関して、他の人間と争わなくても、『仏教経典群の翻訳の権利』は、社会的影響力は絶大であり、全世界規模に波及するし、他の誰も真似ができない領域であって、アイデアの権利は絶対的であるから、それ以外の、もっとレベルの低い権利に対しては、誰かが主張するなら、相手に譲ればいいのである。

『翻訳』というのは、簡単に説明すれば、「ある言語を、他の言語に置き換えているだけ」であり、単純な作業だ。覚えてしまえば、『古代中国語』も、『現代の言語』も、頭の中では、『作業量』としては、そんなに違わない。それでいて、筆者の仕事は、絶対的であり、他の誰も真似できない。そして、絶大な影響力で全世界に波及して、その『仏教経典群・英語版』は、永遠にヒットし続けるだろう。

その英語版を読めば、昔の中国人僧侶たちの凄さが分かる。彼らが、『サンスクリット [Sanskrit]』 【古代インド語】 を、中国語に翻訳したのだ。

筆者自身は、サンスクリットは、まったく読めない。古代中国語は、スラスラと読めるわけではないが、時間を掛けて、昔の辞書を引きながらならば、なんとか『解読』はできる。つまり、『翻訳』というよりも、『暗号解読』に近い感覚である。

筆者にとって、もっとも重要な『アイデアの権利』とは、『宗教経典群の翻訳と解説』なのだ。それ以外のアイデアは、重要ではない。

そして、『書籍』だけでなく、『インターネット・ビデオ』や『DVD』として制作する。そのために、今まで練習してきたのだ。たとえば、仏教の遺跡である、インドネシアの『ボロブドゥール [Borobudur]』も、『取材』をして、謎を解き、インターネット・ビデオや、DVD、あるいは、書籍を制作して、全世界に紹介するだろう。


【ウィキペディア】★ボロブドゥール遺跡




----- 終 -----






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