lil69ili.com - THESIS 019

「政府管理均衡中産階級資本主義」
< Seifu Kanri Kinkou Chuusan Kaikyuu Shihonshugi >

"Government Control Equilateral Middle Class Capitalism (G.C.E.M.C.C.)"





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UPLOAD 2016/06/20





欧米人も、四日市市在住の、このサイトの管理者に関して、

「これだけの才能を持っていて、どうして今まで、日本国内の中で、何の評価も受けず、誰もその才能に気が付かず、30年間も、精神病院で治療を受けているんだ?」

と、不思議に思っているであろう。

結局、「書道における筆の持ち方」が、原因なのだ。

日本国には、

「弘法にも筆の誤り(こうぼうにもふでのあやまり)」

「弘法筆を選ばず(こうぼうふでをえらばず)」

という、諺(ことわざ)があるが、この問題は、

「弘法もトイレットペーパーでは字が書けない。」

と、表現できる。


【故事ことわざ辞典】★弘法にも筆の誤り


【故事ことわざ辞典】★弘法筆を選ばず


【ウィキペディア】★空海


「弘法」とは、『弘法大師・空海(こうぼうだいし・くうかい)』のことである。日本国内で、ただ単に「大師(だいし)」と言えば、空海を意味する、というように、日本史上、最高の僧侶として、今でも、多くの日本人から慕われている。「真言宗(しんごんしゅう)」という宗派の教えを信じない日本人でさえも、空海だけは尊敬している、という人も多い。

その空海は、書道に関してもまた、日本史上、最高に美しい文字を書く書道家としても有名なのである。『三筆(さんぴつ)』とは、日本史上、もっとも美しい文字を書くと言われる、三人の書道家である。空海は、その中の一人なのだ。

ただし、昔は、『掛け軸』や『お経』に、筆記者の『署名(しょめい) [signature]』 【日本語では「サイン」。】 がされていない場合もあり、「どれが本物の空海が書いたお経なのか、はっきりとは分からない」という状態になって、混乱している。たとえ『署名』があったとしても、その署名が、そもそも偽物である可能性もあるわけだ。

だから、現代の日本国では、公的な文書を作成する場合は、『署名』と共に、『捺印(なついん) [seal]』 【日本語で「シール」という場合、「糊付け(のりづけ)」という意味しかなく、「印鑑を押す」という意味では使わない。】 を必要とするのである。

欧米では、官庁・大学・会社が作成する文書以外の、一般市民が日常で作成する書類に『捺印』はしないが、日本国では、「書留の郵便物」とか「領収書」でも、捺印を必要とする。「郵便物」といっても、それは、「郵便局」とか「宅配会社」などの「会社の書類」であるから、捺印を必要とするわけだ。ただし、買い物のとき、クレジットカードを使って、レシートに署名する場合は、捺印は必要としないので、「なんでもかんでも捺印が必要」というわけではない。だが、「どういう場合は、署名だけでよく、どういう場合は、捺印も必要とするか?」という問題に関しては、欧米と日本国とでは、かなり違うはずである。

日本国内では、『偽物の署名』というのは、けっこう多い。日本国では署名する場合、

「誰でも読めるように、楷書体(かいしょたい)で、整った形の文字で名前を書く。」 【「楷書体」とは、書籍や新聞の印字のような四角い形をした文字のこと。】

ということが、ルールとして定められていて、『草書体(そうしょたい)』のような、非常に読みにくい字体で書いた署名は、法律的に認められない場合がある。『楷書体の署名』と『捺印』が、セットになって、文書に記録されていないと、法律的に、認められないのである。

『捺印』に関しても、かなり細かいルールがあり、『シャチハタ』では、通らない。ちょっとした書類の『署名・印鑑』のときでさえ、「シャチハタはダメなんですよ」と断られる場合が多い。

「シャチハタ」とは、数センチの長さの筒の中に「印鑑」と「インク」が、はっていて、朱肉が要らないタイプの印鑑のことである。いちいち朱肉を用意しなくてもいいので、非常に便利である。大変便利なのだ。かなり便利である。

「どうしてシャチハタはダメなのか?」という理由に関しては、誰に聞いても、「法律で決まっているから」としか答えない。弁護士ですら、はっきりとした理由は、よく分からないようだ。「シャチハタ型印鑑」の元祖である『シャチハタ社』でさえ、どうしてなのか、よく分かっていないようだ。

筆者だけは、『本当の理由』を知っているが、今このページは、印鑑の話題が主題ではない。このページで論じようとしている主題は、「政府が法律で貧富の差を無くそうとする、特殊な資本主義」の話であり、印鑑の問題とは関係ない。

とにかく、「シャチハタ」を持っていても、まったく使えない状況なのである。これだけ法律で規制されても、倒産しないのが不思議なくらいである。


【シャチハタ】★ホームページ


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日本国内には、こういう内容の『論文』が存在するらしいことは、さまざまな事実から推測して、明白である。その論文は、約30年前に作成されたと思われる。



「ソビエト連邦に代表される『共産主義』という経済政策は、国民全体の財産や年収が平均化して、貧富の格差が無くなることは確かだが、しかし、国民全体が貧困状態になるだけである。

アメリカ合衆国に代表される『資本主義』という経済政策は、運が良い人は高額所得者に成れるが、運が悪い人は極貧者として一生を終える。

この二つの経済政策の長所を活かし、短所を解決する方法がある。

それは、政府が法律によって、各業界の『マーケット・シェア [market share](市場占有率)』を監視し、バランスが崩れた場合は、法律を改正して、独り勝ちしている商品を販売禁止にしたり、売り上げが減少するように仕向けて、負けている企業の売り上げを取り戻し、倒産することがないようにする方法である。

こうやって、政府がマーケット・シェアを監視して、法律を操作して、民間企業の売り上げのバランスを保つことによって、貧富の格差を無くして、国民全体が、『中産階級』の状態になることができる。

また、『累進課税』を導入することにより、極端な高所得者は『税率』が上がるために、納税額が大きくなるので、貧富の格差を縮小することができる。



筆者は、仮名として、この経済政策に、『政府管理均衡中産階級資本主義 [Government Control Equilateral Middle Class Capitalism (G.C.E.M.C.C.)"]』という固有名詞を考案した。略称としては、『均衡資本主義(きんこうしほんしゅぎ) [Equilateral Capitalism]』という名称を使いたい。

英語の『equilibrate』というのは、「平衡(へいこう)させる」「釣り合わせる」、つまり、「バランスを取る」という意味である。

具体的に、何という名前の学者が、何という名前の論文を書いて、その経済政策の名称を、どう名付けたのかに関しては、まったく不明である。

この『均衡資本主義』においては、年収が1億円を超えると、「所得税+住民税+事業税」の合計が、「50%」を超える。このことによって、年収が低い人と、高い人の『財産の格差』が減るわけである。

こうすれば、国民全体の中のほとんどの人間が、『中産階級』として生活することが可能になる。「極端な資産家」や「極端な貧困者」を、極端に減らすことが可能になるのだ。

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日本国内で、「大学生は、卒業して就職したら、1週間程度の『研修』で、もうそこから、『店長補佐』の役職に就いて、企業の『幹部』として働く」・・・・・というやり方が始まったのが、30年くらい前、つまり、「1980年代中頃」である。筆者が高校を卒業したのが1981年であるから、同じ年齢の者たちが大学を卒業する時期である。

その大卒者たちや、彼らの後輩たちが、今は、50代になっていて、日本国の大企業の経営者や幹部、あるいは、中小企業の経営者や幹部になっているわけである。企業においては、「50代」というのは、もっとも重要な役職に就任する年齢層だ。

彼らは、飲酒はしないし、喫煙もしない。警察の命令には逆らわない。だから、警察もまた、トラブルが起こった場合は、顧客よりも店長に味方をするわけである。

30年くらい前から、「大学を卒業して、すぐに企業の幹部になる」とか、「飲酒はしないし、喫煙もしない」というやり方が主流になり、そのやり方が始まった時期の者たちが、今は、50代になっていて、日本国籍の企業や外国籍企業の日本支社の経営者や幹部になっているわけだ。

調子はどうだろうか? 相変わらず、今でも、何かの商品がヒットすると、すぐに、何らかの対応をしている。その具体的な方法は、こういう方法だ。

(A) 『独り勝ち状態』の商品は、他の商品に比べて、価格を上げる。

(B) 店舗に置くときに、『独り勝ち状態』の商品は、地域全体の中の一部の店舗にだけ置く。(一つの企業の中のすべてのチェーン店、という意味ではなく、業界全体のすべての店舗に対して、その中の一部の店舗だけに置く、という意味。)

(C) 政府が『法律』を改正して、消費者が『独り勝ち状態』の商品を購入しても、意味が無いようにする。

(D) ここまでやっても、まだ、『独り勝ち状態』が解決しない場合は、「TVニュース」によって消費者が自主的に購入を控えるようにする場合もあり得る。

筆者自身は、『アメリカ合衆国型資本主義』を信じているから、日本国の『均衡資本主義』を自分自身が実践する気は無い。しかし、日本国がこれからもその『均衡資本主義』の経済政策を採用するならば、意図的に妨害するつもりもない。

だから、「経営アドバイス」という仕事を、日本国で始めようとしても、意味がないわけだ。なぜなら、筆者の仕事は、「商品をヒットさせる」ということである。もっと正確に説明すると、こういう仕事だ。

(A) 筆者がインターネットで宣伝すればヒットできる商品を見つける。(今のところは、自分で勝手に見つけて宣伝しているだけだが、理想的な方法は、経営者が筆者に「謝礼」を払って、企業で製造している商品を筆者に紹介して、筆者が分析をして、経営者にアドバイスをする形である。)

(B) 企業が用意した数種類の試作品を分析して、どれを正式採用して発売すればいいかをアドバイスする。(映画制作におけるシナリオに関しても撮影を始める前の段階でアドバイスできる。)

(C) 企業が開発中の試作品を検証して、どの部分をどう変更したらいいかをアドバイスする。(映画のシナリオに関しても、どう修正したらいいかアドバイスできる。)

(D) 過去に販売していたが現在は生産を終了している商品に関して、「復活させればヒットする」という商品を特定する。(映画DVDでは、もうすでに、インターネットで宣伝したことによって成功している商品がいくつかある。)

こうい仕事だ。企業は、自動車や電化製品に関して、1年間か2年間くらい生産し続けると、新しい商品に切り替えて、前の商品の生産を終了する場合が多い。食品だと、ヒットした商品は、10年以上、同じ物を製造し続ける場合が多い。

企業においては、「宣伝費」というのは、非常に高額になるから、

「宣伝が足りなかったからヒットしなかっただけであり、過去の発売当時に、しっかり宣伝していれば、ヒットしていたかも知れない。」

という商品は、ときどきあるし、また、

「『過去の発売当時にしっかり宣伝しておけばヒットしていたかも知れない』という商品に関して、『今から復活させても、もうヒットはしない』という商品のほうが圧倒的に多いが、しかし、ごくわずかだが、『今から復活させて生産を再開すれば、今からでもヒットすることができる』という商品もある。」

ということだ。この見極めは難しいし、失敗したときの企業側の損失は莫大になるから、経営者たちも、そういう『博打(ばくち)』は、普通は、しない。

しかし、何年か前に、筆者のサイトで、

「映画DVDや、昔のビデオゲームは、『液晶TV』よりも、『ブラウン管TV』のほうが、きれいに映る。」

と、書いたことがあるが、そのことは、今でも、筆者は、正しいと思っている。日本国内では、ブラウン管TVの生産はすべて終了しているが、復活させれば、ヒットするブラウン管TVは、あると思う。

このように、現在は液晶TVが主流になっていても、旧式のブラウン管TVが、マーケット・シェアを確保することは可能なのだ。

昔の映画DVDがヒットし続ける場合、かなり古い時代の映画に関しては、もともとのフィルムの画質が悪いので、『BD [Blu-ray Disc]』に変換しても、画質は良くならない。すると、画質が良くならないならば、液晶TVで見るよりも、ブラウン管TVで見るほうが、きれいに映るのであるから、今後、他に「ブラウン管TVよりもきれいに映る新型のTV」が新登場するまでは、ブラウン管TVは、マーケット・シェアを確保し続けることができる・・・・・という論理が成り立つ。

こういった『経営理論』に関しても、やはり、日本国の経営者は、違う考えを持っていて、

「過去に販売してヒットしなかった商品に対して、現在生産している商品の生産を終了して、過去の商品を再び生産し始める・・・・・という『博打』は、できない。そんなやり方よりも、現在生産している商品を、もっと進化させた新型商品を開発したほうが、成功する確率は高い。」

と、反論するであろう。

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前回の論文で『書道』を説明したが、あの話は、非常に分かりやすい。筆者が、もし、『書道』で出しゃばっても、「筆の持ち方」で、ケンカになる。当然、周囲の日本人は、「書道家の持ち方が正しい」と言い張る。書道家も、

「鉛筆やボールペンや万年筆で書くときの持ち方と、同じに決まっている。」

という説明をすると、周囲の日本人は、そっちが正しいと思うわけだ。

『ライバル(=自動的に親友を意味する)』のテレビ局関係者も、筆者に対して、こう、説得するはずだ。

「書道家の持ち方が正しいんだから、その持ち方を覚えてくれよ。このままでは、せっかくのおまえの才能がムダになる。」

だから、筆者が、日本国の中で、いろいろなジャンルで出しゃばっても、意味がないわけである。筆者自身は「意味が無い」と主張しているが、ライバルは、納得しない。

「おまえが間違っているんだから、みんながやっているやり方を覚えろ。」

というわけだ。

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将棋でもそうだ。「駒の動かし方」は同じでも、『ルール』が違う。

日本人は、

「他の人の将棋の対戦を、傍で『観戦』して、対戦中に、自分の感想を口に出して、他の観戦者たちと一緒に議論する。」

という『観戦』の仕方を、かなり、楽しみにする。

若い頃、そのことを知らなかったので、自分が誰かと対戦しているとき、観戦者が、「もっとこうしたほうがいい」とか、「オレなら、あと3手で詰めることができる」とか、ブツブツブツブツ言い始めると、将棋の駒を手で払って、「うるせえな。じゃあ、おまえがやれよ!」と、怒鳴って、対戦をやめる。すると、その、観戦者が、「なんだおまえは、文句があるのか!」と、殴りかかってくるのである。

精神病院の入院中、他の患者と将棋の対戦をすることもあったが、やはり、観戦者がブツブツ言い始めると、ケンカが始まる。すると、男性看護師は、筆者に対して、こう、説教をする。

「見ている人が自分の意見を口に出すのは悪くない。それを起こるほうが悪い。そんなことでは、いつまで経っても、社会復帰できないぞ。野球だって、試合を観戦している人が応援するのは当たり前だろう。」

今は、「日本人は、将棋の観戦をするときに、観戦者たちが、自分の感想を口に出して、議論をするのが、楽しいんだ」・・・・・と、分かってきたので、そのことに関しては、文句を言わないが、しかし、筆者自身の、「観戦者がブツブツ口にすることが気に食わない」という『性格』は、精神安定剤を服用していても、改善されない。だから、誰とも将棋を打たない。

将棋を打つとき、『対戦相手』は、自分が気の合う友達を選ぶことができるが、『観戦者』は、選べない。「おまえは見るな」と言うと、そこで殴り合いのケンカが始まる。だから、最初から、自分は、対戦者にはならないほうがいい。つまり、他人と他人の対戦を観戦することはあるが、自分が誰かと対戦することはない。

このように、『ルール』が違うのだ。

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いま住んでいる公営住宅においても、近所のオッサンは、筆者が「どこの会社で働いているだ?」と聞くと、「なんでテメエに教えなきゃならねえんだよ」と、答えるので、筆者は、「じゃあ、もういいわ」と、しゃべらなくなるのだが、日本人は、それがまた、気に食わないらしいのだ。

つまり、相手が自分の職業を教えなくても、ニコニコして仲良く会話をするのが、正しいらしいのである。筆者は、それが理解できない。

それと、日本国では、

「精神病は、伝染病だ。」

と、思っている人がかなり多いので、精神障害者が近寄ってきただけで、逃げる人も多い。

この『感覚のズレ』というのは、自分の親ですら、かみ合わない。

精神病院に関して、筆者が、母親に、こう言うと、母親は、こう、答える。これは、今年に実際にあった会話だ。

「あの病院の看護師たちは、自分の話をしたがらない。患者の経歴や職業や家族構成のことは、報告書を読んで、詳しく知っているが、看護師自身は、名前以外は、何も説明しない。入院していたときもそうだ。どこに住んでいるのかも教えないし、家族構成も教えない。学歴も教えない。名前以外は、絶対にしゃべらない。何人かは、そういう話をする看護師はいるが、その人たちも、詳しくは教えたがらないし、嘘を付いて説明している看護師もいる。ほとんどは、名前以外は、何も説明しない。」

「それは、当たり前だよ。」

「当たり前? どうして?」

「患者は精神病なんだから、逆恨みされて、家を狙われるかも知れないだろ? だから、教えないのは、当たり前だよ。」

「へえ。日本では、そういう考え方をするのか。」

こういう感じで、病院の仕事も、やはり、日本国のルールは、筆者とは、かみ合わない。

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はっきりとは確認できないが、筆者に対して、「精神病を治すことができる」あるいは「完治できなくても、大幅に改善できる」という噂が流れているらしい。そのことも、説明しておくが、それが「筆者本人」であろうとも、あるいは、「筆者の知り合い」であろうとも、このことは事実だ。

すなわち、「精神病に対する理論が違う」ということだ。日本国における理論は、『ドーパミン [Dopamine]』であるが、筆者は、そういう理論を使わない。ぜんぜん違う。

詳しくは知らないが、『ドーパミン理論』というのは、つまり、

「精神病というのは、脳内で分泌される『ドーパミン』という、『精神状態に作用する分泌物』が、過剰になったり、不足することによって、バランスが崩れて、精神状態が不安定になることが原因で起こる病気であり、『精神安定剤』を長期間服用することで改善できる。」

つまり、あくまでも、

「脳、という体内臓器の、正常な機能が失われる現象である。」

という見解である。

「『精神』というのは、『脳の機能』である。」

という見解である。

そもそも、それが違う。「精神」とは、「脳の機能」とは違う。

少しだけ説明すると、人間は、『身体』と、もう一つの『不可視体(ふかしたい) [Invisibility Body]』の二重構造を持っているのであり、その『不可視体』が原因なのだ。

『不可視体』とは、「肉体の眼では見えない体」という意味であり、具体的には、英語では、『Astral Body(アストラル・バディ)』『Etheric Body(イーセリック・バディ)』『Aura(オーラ)』と言い、日本語では『アストラル体(たい)』『エーテル体』『オーラ』という。

そもそも、これが見える『医者』でないと、『診察』は不可能であり、『治療』も不可能である。

これらの「肉眼では見えない体」が、ダメージを受けると、『精神病』になるのである。

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筆者の周辺は、現在、こういう状況であり、日本国内における、ありとあらゆる情報を集めてライバルに報告している『ニンジャ(=報道機関)』が納得しないと、日本国から出られない。







<精神病に関する一般的な医学理論>


【ウィキペディア】★ドーパミン


【Wikipedia】★Dopamine


<精神病に関するこのサイトの関係者の医学理論>


【ウィキペディア】★アストラル体


【Wikipedia】★Astral body


【ウィキペディア】★エーテル体


【Wikipedia】★Etheric body


【ウィキペディア】★オーラ


【Wikipedia】★Aura (paranormal)



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