lil69ili.com - THESIS 040
「アウトレンジ戦法」
< Autorenji Senpou >
" Tactics Outrange "
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UPLOAD 2017/10/04 |
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小沢治三郎 | マーク・ミッチャー | |||
Jisaburou Ozawa | Marc Mitscher | |||
AD1886-1966 | AD1887-1947 | |||
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(地図の中の地名は、近年) | ||
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1941年12月8日、日本帝国の陸軍が、輸送船でマレー半島に上陸し、その1時間後、海軍がハワイ諸島:オアフ島の真珠湾を攻撃した(ハワイ現地時間:12月7日)。 これにより、ヨーロッパ戦争と日中戦争は、世界大戦へと拡大した。 日本帝国軍は、快進撃を続け、2ヶ月後の1942年2月15日には、連合王国(=イギリス)軍の要塞:シンガポールを占領。さらに南下を続け、フィリピンと、その南の『オランダ領東インド [Dutch East Indies](=現在のインドネシア)』へも攻め込み、5月には、フィリピンのアメリカ合衆国軍が降伏した。 オランダ領東インドでも、オランダ軍を相手に快進撃を続け、ボルネオ島(=カリマンタン島)、スマトラ島、ジャワ島を攻略すると、ニューギニア島へ進撃した。 しかし、ニューギニア島の東部にある、ポートモレスビーの連合国軍の抵抗は頑強で、なかなか攻略できなかった。 1942年5月8日、日本帝国軍は、航空母艦3隻(大型空母2隻+小型空母1隻)が護衛して、攻略部隊輸送船団をポートモレスビーに送り込もうとしたが、珊瑚海{さんごかい}で、アメリカ合衆国軍の航空母艦2隻(大型空母2隻)と交戦状態になった。人類史上初の航空母艦同士の対決だった。 この戦いで、日本帝国軍は、アメリカ合衆国軍の大型空母1隻を撃沈し、もう1隻も大破させたが、日本帝国軍側も、小型空母1隻が沈没、大型空母1隻が大破し、空母の艦載機による攻略船団の護衛が不可能になり、攻略船団は上陸作戦を中止、ポートモレスビー攻略作戦は失敗する。 アメリカ合衆国軍の航空母艦の撃滅を図{はか}った日本帝国軍は、ミッドウェー島の周辺海域で航空母艦同士の決戦に持ち込んだが、返り討ちに遭{あ}い、大型空母4隻を失い、多くの優秀なパイロットも失った。アメリカ合衆国軍の損失は、大型空母1隻が沈没しただけだった。 このあと、ソロモン諸島で、アメリカ合衆国軍との激しい戦いが続き、ポートモレスビーも攻略できず、次第に、日本帝国軍は、兵力を消耗し始めた。 一方、アメリカ合衆国軍は、アメリカ合衆国本土における兵器の生産が軌道に乗り始め、兵員の戦闘訓練も順調に進み、日本帝国軍を圧倒する兵力で、ソロモンの戦いを有利に進め、遂に、ここから、押し返し始める。日本帝国軍は、ソロモン諸島から撤退を始め、ニューギニア島でも、アメリカ合衆国軍とオーストラリア軍の連合軍に、敗北し始める。 連合軍は、1944年5月27日には、ニューギニア島の『ビアク諸島 [Biak Islands]』の『ビアク島 [Biak Island]』に上陸を開始、連合軍3万人と日本帝国軍1万5千人の攻防戦になり、日本帝国軍も、戦艦などを投入して、ビアク島を守ろうとした。しかし、徐々に、連合軍側が圧倒し始めた。 アメリカ合衆国軍は、この時点で、マリアナ諸島の攻略を狙った。理由は、その頃、完成しつつあった、高性能大型爆撃機:『ボーイング・B−29・スーパーフォートレス [Boeing B-29 Superfortress]』である。爆弾搭載時の航続距離が6500km以上もあり、従って、『行動半径 [combat radius]』が2600km前後もある。つまり、 |
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という意味である。マリアナ諸島のサイパン島やテニアン島から、日本帝国本土まで、2500km前後であるから、マリアナ諸島の島々は、B−29の基地として、理想的だったのである。 日本帝国側も、「アメリカ合衆国が新型爆撃機を完成しつつある」という事実は、知っていたので、どうしても、マリアナ諸島を、守らなければならなかった。その頃、日本帝国側もまた、旧型の艦上攻撃機:『九七艦攻(=九七式艦上攻撃機)』に代わって、新型の『天山{てんざん}』が完成し、旧型の艦上爆撃機:『九九艦爆(=九九式艦上爆撃機)』に代わって、新型の『彗星』が完成していた。 【「艦上攻撃機」は、「雷撃(=魚雷攻撃)」と「水平爆撃」を行い、「艦上爆撃機」は「急降下爆撃」を行う。】 この方面の総司令官は、小沢治三郎・海軍中将{おざわ・じさぶろう・かいぐんちゅうじょう}だった。 『天山』『彗星』は、アメリカ合衆国軍の艦上攻撃機や艦上爆撃機よりも、行動半径が長かった。そこで、小沢中将は、このような戦法を思い付いた。 |
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それは、『アウトレンジ』という戦法だった。 『アウトレンジ』とは、普通、戦艦や巡洋艦の大砲の撃ち合いに関して、 |
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とする考え方である。日本帝国軍が、超大型の戦艦『大和{やまと}』や『武蔵{むさし}』を建造したのも、こういう理由からだ。しかし、皮肉にも、真珠湾攻撃のあとからは、航空機の戦いになり始めた。そこで小沢中将は、この『アウトレンジ』という考え方を、空母同士の戦いに応用しようとしたのである。 この考え方は、間違っていないはずだ。艦載機の行動半径が、敵の艦載機よりも長い場合、敵の行動半径の外側から発進させれば、一方的に勝利できるはずである。 この当時のアメリカ合衆国軍の艦上攻撃機や艦上爆撃機の行動半径は、『250マイル [= 402.25km] 前後』であり、これに対して、日本帝国軍の艦上攻撃機『天山』や艦上爆撃機『彗星』の行動半径は、『350マイル [= 563.15km] 前後』もあった。つまり、行動半径が100マイル [= 160.90km] 違うわけである。従って、双方の距離が『300から350マイル [= 482.70から563.15km]』という位置で発進させた場合、敵はこちらを攻撃できないが、我が軍は攻撃が可能なわけである。 日本帝国海軍・連合艦隊は、この当時に残っていた主力部隊をすべて結集して、フィリピンの軍港停泊地:『ギマラス [Guimaras]』で待ち構えていた。 日本帝国側は、オランダ領東インドの北方に位置するカロリン諸島の海域が決戦場になるだろうと予測していたが、1944年6月11日、ビアク島の攻防戦が続いている最中、アメリカ合衆国軍は、マリアナ諸島に対して、空母の艦載機で空襲を始めた。 この空襲は、日本帝国軍が予測していなかったので、完璧な奇襲攻撃となり、大きな被害が出た。約300機あった軍用機のほとんどが破壊された。マリアナ諸島の基地からも、アメリカ合衆国軍機動部隊を航空攻撃しようとしていた日本帝国軍は、決戦の前から、計画が狂ってしまった。わずかに中型爆撃機:『一式陸攻(=一式陸上攻撃機)』が、3機だけ、飛び立って、敵機動部隊に向かったが、敵の護衛戦闘機隊に、全機撃墜されてしまった。 6月13日からは、マリアナ諸島のサイパン島に対して、戦艦や巡洋艦による艦砲射撃も始まった。艦載機による空襲も、6月14日まで毎日続いた。 これで、日本帝国軍は、アメリカ合衆国軍の次の目標を知った。それは、マリアナ諸島だった。ニューギニア島から、一気に、マリアナ諸島まで進撃してきたのである。 6月15日、日本帝国軍の連合艦隊は、ギマラスを出撃し、シブヤン海を通過して、サンベルナジノ海峡から、フィリピン海へと抜けた。 このときの、アメリカ合衆国軍と日本帝国軍の空母艦隊の兵力は、次の通りである。【資料によって、艦船数や艦載機数に誤差あり。】 |
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6月15日、アメリカ合衆国陸軍2万人が、サイパン島へ上陸を開始した。日本帝国軍の守備隊は3万人であり、激戦になった。アメリカ合衆国軍は、その後も、続々と兵力を増強した。 6月18日の午後、日本帝国軍の索敵機{さくてきき}(=偵察機)が、アメリカ合衆国軍の機動部隊を発見した。位置は、サイパン島の西方300マイル [= 482.70km] 、日本帝国軍機動部隊からは、380マイル [= 611.42km] の地点だった。幸運にも、日本帝国軍側は、この時点で、まだ、アメリカ合衆国軍の索敵機には発見されていない。 まさに、小沢中将が考えた、『アウトレンジ戦法』の位置として、完璧だった。機動部隊の一部の空母からは、「当然、出撃命令が出るはずだ」と信じ込んで、小沢中将が正式に命令を発する前に、もう、発進してしまっている者たちもいた。 小沢中将は、部下たちから、これらの報告を受けた。 |
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小沢中将は考えた。380マイル [= 611.42km] の距離を、150ノット [= 277.80km/h] で飛行すると、2時間以上かかり、攻撃時間も含めると、往復6時間になる。問題なのは、現在の時刻だ。今、発進させると、敵艦隊の上空に達したときには、日没に近い時刻になってしまう。この『薄暮攻撃{はくぼこうげき}』は、敵艦が見えにくく、攻撃の効率が悪いし、空母まで戻ってきた頃には、夜になってしまい、艦載機の多くが、着艦できずに、海に不時着水することになる。 攻撃を完了した艦載機を、マリアナ諸島の飛行場に着陸させる方法もあるが、6月11日から14日まで続いた大空襲における被害から考えても、敵の激しい空襲を受けて、飛行場で破壊される可能性が高く、翌日以降に、空母に戻るために発進することができなくなる可能性が高い。 小沢中将は、決断した。 |
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太平洋戦争が終わったあとに、分ったことだが、6月18日の午後に、もし、日本帝国軍が、380マイルの地点から総攻撃を始めていたならば、アメリカ合衆国軍の戦闘機は、夕刻に全機、空母に着艦していて、甲板上は、艦載機の整理で、ごったがえしていたので、そこへ、日本帝国軍の艦載機が襲いかかっていたならば、何隻かは、撃沈していたかも知れなかったらしい。 しかし、それは、結果論である。部下思いの小沢中将は、このとき、自分の判断が正しいと信じて、「総攻撃中止」の命令を出したのである。 6月19日、日本帝国軍は、夜明けと同時に、索敵機を発進させた。「サイパンの西方」と分っていたので、その辺りに、44機を飛ばした。 AM06時34分、索敵機からの電信報告が入った。 |
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「264度」とは、すなわち、「サイパン島の西」という意味である。この位置は、日本帝国軍機動部隊本隊から、380マイル [= 611.42km] の距離だった。小沢中将は、今度は迷うことなく、 |
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を命令した。AM07時30分頃、『第3航空戦隊』の小型空母:『千代田』『千歳』『瑞鳳』の3隻から、艦載機64機、続いて、『第1航空戦隊』の大型空母:『大鳳』『翔鶴』『瑞鶴』の3隻から、128機が発進。更に、少し遅れて、『第2航空戦隊』の中型空母:『隼鷹』『飛鷹』および小型空母:『龍鳳』の3隻から、49機が発進した。これらが『第一次攻撃隊』であり、AM07時30分頃からAM08時00分頃にかけて発進し、総数は、241機だった。 その第一次攻撃隊が発進したあと、先の索敵機とは別の索敵機が、別の敵機動部隊を発見した。 |
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その報告の直後、立て続けに、また別の1機からも、報告が入った。 |
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小沢中将は、すでに発進させてあった第一次攻撃隊のうちの一部を、『第三報の艦隊』に向けることにした。 |
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この命令を発した時間と前後して、日本帝国軍に、突如、悪夢が襲った。それは、『第1航空戦隊』が『第一次攻撃隊』を発進させた直後のことだった。 AM08時10分、アメリカ合衆国軍の潜水艦:『アルバコア [USS Albacore (SS-218)]』が、密かに近寄っていて、小沢提督が座乗{ざじょう}している、『第一機動艦隊』全体の旗艦である、空母『大鳳』に、魚雷6本を発射し、そのうちの1本が命中したのである。すぐに日本帝国軍の駆逐艦部隊が爆雷を25発撃ち込んで猛攻を浴びせたが、『アルバコア』は、逃げ切った。『大鳳』の被害は軽かったので、応急処置を施しながら、戦闘を続けた。 AM09時00分頃、『第二次攻撃隊』として、『第1航空戦隊』の18機と、『第2航空戦隊』の50機、合せて、68機が、発進した。 AM08時00分頃に発進した第一次攻撃隊は、AM09時30分頃、アメリカ合衆国軍の艦隊に接近した。ところが、ここで、予想外の展開が起こる。 アメリカ合衆国軍の艦隊は、空母群の西方50マイル [= 80.45km] の地点に、最新型のレーダーを搭載した駆逐艦を配置してあり、その『警戒駆逐艦』が、100マイル [= 160.90km] 遠方から、航空機の大群が接近し始めたのを感知したのである。つまり、日本帝国軍の攻撃隊は、アメリカ合衆国軍の空母群から、150マイル [= 241.35km] の地点で、レーダーによって、感知されたのである。「150マイル」といえば、全速力に切り替えても、まだ、そこから、40分以上も飛行しなければならない。 ミッチャー中将は、命令を発した。 |
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この時期のアメリカ合衆国軍の艦上戦闘機は、日本帝国軍の傑作機:『零式艦上戦闘機{れいしき・かんじょう・せんとうき}(略称:零戦{れいせん/ぜろせん})』と、互角に戦える性能を持っていた。それが、475機で、日本帝国軍の241機に襲いかかったのであるから、空中戦の勝敗は、目に見えていた。 |
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ミッチャー中将は、更に命令を発した。 |
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どういうことかというと、今は、まだ、アメリカ合衆国軍側の索敵機が、日本帝国軍の主力艦隊の正確な位置をつかめていない。それならば、空母を空{から}にして、日本帝国軍の攻撃を受けるほうが、もし、爆弾や魚雷が命中した時に、被害が軽くなるからである。空母の甲板上に艦載機が乗っている状態だと、爆弾が1発命中しただけで、艦載機に搭載してある爆弾も誘爆する危険がある。 空母15隻から、400機を超える艦上攻撃機・艦上爆撃機が、直ちに発進した。 日本帝国軍の第一次攻撃隊のうち、まず最初に、第3航空戦隊の64機が、敵艦隊に接近し、『突撃体形』を組み始めた。そのとき、攻撃隊の上空から、アメリカ合衆国軍の艦上戦闘機数百機が急降下しながら、機関銃を浴びせてきたのである。 64機のうち、25機が、一瞬にして撃墜された。空中戦を切り抜けて、艦隊上空まで到達したのは、39機だけだった。 ところが、ここでも、またまた、予想を超えるような展開が待っていた。アメリカ合衆国軍の新型の『高角砲』の威力である。今までの高角砲の弾丸は、空中で炸裂{さくれつ}しても、簡単には、敵機に命中しなかったのだが、新型の砲弾は、まるで、自分で敵機を感知して炸裂しているかのように、正確に炸裂するのである。今までの高角砲弾は、発射する前に、「何秒後に炸裂させるか」という数値を、射手が手動でセットしてから発射していたのだが、新型の砲弾は、航空機に接近すると、自動的に炸裂したのである。このため、太平洋戦争では、この新型高角砲弾が登場してからは、日本帝国軍の航空機が、高角砲弾で撃墜されることが多くなった。 第3航空戦隊の攻撃隊64機は、護衛戦闘機群の迎撃を振り切って敵艦隊上空まで侵入できたのが39機だけであり、ここで新型高角砲によって30機以上が撃墜され、敵艦に爆弾を投下することができたのは、たった2機だけだった。1発は、巡洋艦に対する至近弾{しきんだん} 【艦船の近くの海で爆発し、爆風や破片で被害が出ること。】であり、1発だけが、戦艦を直撃した。しかし、戦艦は軽傷だった。 そのあと、今度は、第1航空戦隊128機が接近した。やはりこれも、突如、上空からアメリカ合衆国軍の戦闘機の大群が急降下してきて、一瞬にして、半分以上が撃墜され、空中戦を突破して艦隊上空に現れても、新型高角砲で、バタバタと落とされる。 かろうじて、2機だけが、爆弾を投下できたが、その2発は、空母に対する至近弾だけであり、ほとんど被害は出なかった。それ以外に、1機が、炎上しながら、戦艦に体当たりしたが、これも、軽傷だった。 結局、第1航空戦隊128機は、護衛戦闘機と新型高角砲によって、96機が撃墜された。 途中で攻撃目標を変更した、第一次攻撃隊・第2航空戦隊49機と、第二次攻撃隊68機は、第二次攻撃隊・第1航空戦隊18機だけが敵艦隊を発見できたが、他の99機は、敵艦隊を発見できなかった。 第1航空戦隊18機は、6機が撃墜され、残りも、有効な攻撃ができなかった。 他の99機のうち、一部は、マリアナ諸島のロタ島あるいはグアム島に向かい、ロタ島を目指した集団は無事に不時着できたが、第一次攻撃隊・第2航空戦隊の50機は、グアム島の上空で敵戦闘機の大群の待ち伏せに遭い、39機が撃墜された。 AM11時18分、潜水艦『カヴァラ [USS Cavalla (SS-244)』が、空母『翔鶴』に向けて、魚雷6本を発射し、そのうちの3本が命中、駆逐艦部隊がこの潜水艦を追い駆けて爆雷を100発以上撃ち込んだが、『カヴァラ』は逃げ切った。『翔鶴』は、大火災になった。 PM14時10分、『真珠湾攻撃』にも参加した戦歴を持つ、空母『翔鶴』は、大爆発を起こして沈没した。 続いて、PM14時20分、魚雷1本が命中したあとも、戦闘を続けていた、新鋭空母『大鳳』が、突然、大爆発を起こした。知らない間に、艦内にガスが充満していて、何かの原因で引火したのである。そして、2時間後のPM16時28分、『大鳳』は沈没した。 この2隻の大型空母が沈没するとき、艦内には、約100機の艦載機が載{の}っていた。 日本帝国軍は、発進させた攻撃隊、合計309機のうちの約240機と、『大鳳』『翔鶴』と共に沈んだ、約100機とを合せて、この時点で、337機を喪失していた。残存機は、空母7隻に、102機があるだけだった。 小沢中将は、『大鳳』が沈む前に、旗艦を空母『大鳳』から、巡洋艦『羽黒{はぐろ}』に移してあった。まだ、戦いを続けようとしたが、連合艦隊司令部から、「一時退避して、態勢を整えよ」という命令が出たので、西に向かって退避を始めた。そのあと、旗艦を、巡洋艦『羽黒』から、空母『瑞鶴』に移して、西進し続けた。 翌日の6月20日、日本帝国軍艦隊は、西へ向かって退避し続けていたが、アメリカ合衆国軍は、索敵機を飛ばして探し続けた。なかなか見つからなかったが、PM16時00分頃になって、ようやく、日本帝国軍艦隊を発見した。 位置は、アメリカ合衆国軍艦隊よりも、220マイル [= 353.98km] 離れた距離である。アメリカ合衆国軍艦載機の行動半径内である。しかし、問題は、時刻だった。今から発進させると、攻撃は夕刻になり、しかも、空母に戻るときには、真っ暗闇になっている。アメリカ合衆国軍のパイロットは、「空母への夜間着艦」の訓練は受けていない。こちらは攻撃側であるから、マリアナ諸島の飛行場に降りることはできない。 つまり、発進命令を出せば、発進させた数だけ、確実に、艦載機を喪失することになる。 ミッチャー中将は、決意した。 |
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PM16時20分頃、アメリカ合衆国軍の空母群から、216機が発進して、全速力に近い速度で西へ向かった。 50分後のPM17時10分頃、攻撃隊は、索敵機から報告のあった地点の海域を探したが、日本帝国軍機動部隊は見つからなかった。更に進むと、『行動半径』の250マイル [= 402.25km] を超えてしまう。艦上攻撃機や艦上爆撃機の最高速度は『220ノット [= 407.44km/h] 前後』であるが、速度が速いと燃料消費率は悪くなり、航続距離が短くなる。つまり、『行動半径』が短くなり、攻撃後、自分の空母まで、戻るための燃料が途中で切れるかも知れない。つまり、逆の意味の『アウトレンジ』になってしまう。 しかし、攻撃隊は、構わずにそのまま、捜索を続けた。そして、更にそこから、80マイル [= 128.72km] も飛行して、20分後のPM17時30分頃、遂に、日本帝国軍の空母群を発見した。つまり、実際は、アメリカ合衆国軍艦隊から、300マイル [= 482.70km] も離れていたのである。日本帝国軍艦隊は、退避中だったので、アメリカ合衆国軍索敵機が発見したあと、1時間半の間に、40マイル [= 64.36km] ほど、移動したのかも知れないが、索敵機の報告の位置が、40マイル以上、ずれていたのは確かだ。【GPSの無い時代に、どうやって海上における位置を計測していたのかに関しては、筆者も知らない。太平洋戦争では、索敵機からの位置報告が間違っていて、攻撃隊が敵艦隊を発見できずに引き返した、というアクシデントは多い。】 この攻撃の直前、日本帝国軍側の索敵機も、PM16時15分に、アメリカ合衆国軍の艦隊を発見していたので、PM17時25分、アメリカ合衆国軍攻撃隊が出現する5分前、艦上攻撃機7機が発進していた。 アメリカ合衆国軍の攻撃隊が上空に現れると、日本帝国軍の空母群から、零戦42機が発進した。艦船からは、高角砲が発射される。 アメリカ合衆国軍は、零戦と高角砲によって20機が撃墜されたものの、艦上戦闘機隊が、零戦12機を撃墜し、艦上攻撃機と艦上爆撃機は、日本帝国軍艦隊に向かって突撃し、空母『飛鷹』を撃沈、空母『瑞鶴』『隼鷹』『千代田』を損傷させ、他に、燃料補給艦2隻を撃沈した。 先に、日本帝国軍側から発進した7機の艦上攻撃機隊は、敵艦隊を発見できずに引き返したが、3機が空母に戻らず、残りの4機は海に不時着した。 PM20時00分過ぎ、ようやく、アメリカ合衆国軍の攻撃隊が、自軍の空母群に戻ってきた。空母では、光らせることのできる照明をすべて点灯し、サーチライトを上空に向けて誘導した。 夜間の着艦は非常に難しく、戻ってきた196機のうち、無事に着艦できたのは、116機であり、残りの80機は、着艦に失敗したり、夜の海上に不時着したりして、喪失した。 しかし、パイロットのほとんどは、無事に救助され、その後の戦闘に復帰した。 6月20日の戦いで、空中戦と、空母の沈没により、日本帝国軍は、残存機の102機のうち、更に、41機を喪失した。 決戦の直前、439機あった艦載機のうち、2日間の戦いで、86%に当たる378機を失い、健在だったのは、14%に当たる61機だけだった。 小沢中将は、それでもまだ、戦艦・巡洋艦・駆逐艦の砲撃・雷撃による、夜戦を挑もうとしていたが、遂に、連合艦隊司令長官・豊田大将から、 |
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と、『撤退命令』が出た。小沢中将は、全艦隊に夜戦の中止を命令し、針路を北西に取って、沖縄へ向けて退却した。 そのとき、小沢中将は、涙を流して泣いていた。のちに『マリアナ沖海戦』(英語では『Battle of the Philippine Sea』)と呼ばれることになる、日本帝国軍とアメリカ合衆国軍の、航空母艦同士の大決戦により、日本帝国軍は、空母から発進して戦うことのできるパイロットを、ほとんど失ったのである。 どうしてアメリカ合衆国軍の攻撃隊が、行動半径を超えた『アウトレンジ』の距離から、空母まで戻って来れたのかが謎なのだが、理由は、三つ考えられる。これらは、筆者の推理だ。 |
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マーク・ミッチャー提督による『逆アウトレンジ戦法』は、太平洋戦争の数ある海戦の中でも、奇跡と呼べるほどの大勝利をもたらしたのだった。 |
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参考ビデオ | ||
【www.youtube.com】 SI RYU ★珊瑚海海戦/昭和17年5月7日★ <VIDEO 00:12:31> [公開 2016/10/22] |
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参考文献 | ||
【wikipedia.org】 ★マリアナ沖海戦★ |
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【omniatlas.com】 ★Battle of the Philippine Sea _ Historical Atlas of East Asia (19 June 1944) ★ |
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----- 終 ----- | ||
ADMIN MEMO
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